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脱腸帯と天花粉事件

阿部年雄 

広島への原爆投下当日、建物の疎開作業に動員されていた母が爆心地からわずか1.5キロで被爆、顔や手などに大やけどを負った。前年に17歳で陸軍中尉だった父と結婚、わずか1週間の新婚生活もつかの間に父は任地の満州へ。母は被爆の3日後に、探していた実父に臨時救護所で奇跡的に<発見>され、懸命な看病を受けて生き延びた。南方トラック島に転戦した父も終戦の4か月後に復員、その後に生を授かった私はまさしく「被爆二世」である。

生まれたのは広島市中心部から東に約15㌔、母の実家のある安芸郡奥海田村(現・海田町)砂走の在所から旧・山陽道を広島方向に行った道沿いの民家の2階だった。原爆後の広島は復旧もままならず、貸家どころか貸間さえない時代、母の長兄が苦心して探してくれたそうで、産婆さんに取り上げてもらった。

当時、被爆者は流産や死産のケースも多いとされ、たとえ無事に生まれたとしても長くは生きられないと言われていたことなどあって出生届を出すのが遅れ、実際の生年月日は戸籍のちょうど2か月前の昭和211116日である。これは長く「被爆の語り部運動」を続けてきた平和運動家の母が十数年前に打ち明けてくれたので初めて知った。「そんなのとっくに時効だよ。道理で星占いが当たらないと思ったわ」と笑い飛ばしておいた。

心ない風評に反して、母乳を勢いよく吸い、泣き声も近所中に響きわたるほど大きく、半端ない泣き声に困り果てた祖母が私を負ぶって、すぐ近くを走る山陽本線の踏切あたりまでしょっちゅう出かけていたという。列車の騒音で泣き声がかき消されるのを狙ったようだが、ご近所さんからは「機関車や貨物列車と泣き比べじゃのう」と評されたらしい。

ところが、ある日、祖母がオムツを外したら、下腹部、つまり陰嚢が異常に腫れ上がり、まるで信楽焼のタヌキのようになっていた。だれも見たこともない症状だったので、口には出さないまでも母の浴びた放射能の影響か、それとも化膿したのではなどと大騒ぎになったが、実家かかりつけ開業医の石光先生に見せたところ、「こりゃあ、大泣きする子どもにようある脱腸(=ヘルニア)じゃねえ」と診断されたのである。「心配せんでもええ。学齢前に手術をすればちゃんと治るから、それまでは辛抱してもらうことになるがのう」ということになった。幼児期に手術をすると、術後の絶対安静が難しいので、聞き分けができるようになるまで待ちなさい、ということだった。広島弁の石光先生ならこんな口調だったのではあるまいか。

脱腸は腹壁の裂け目からへその部分や足の付け根(=鼠径部)に腸が飛び出すことでそう呼ばれる。私の場合もとくに痛みなどはなく、その都度、手で押さえれば元に戻せたが石光先生からは「脱腸帯」をつけることを強く勧められた。父が闇市まで回って苦心して探してきたのは幼児用ではなく大人用の一番小さいサイズだった。下腹部に押し当てる丸いゴムの部分を腹部と股下に回すベルトで固定する構造だったが、そもそもオムツの上からでは押さえきれず、泣くたびにずれて、腸が飛び出るのが常態となった。外からは見えないにしても、オムツ全体が異常に膨れていることもあって「がに股歩き」をせざるを得なかったという、なんとも情けない記憶がある。

母の右半身には被爆のケロイドが大きく残り、実家の援助による度重なる手術でもひきつれた右手の指は皮膚の移植でかろうじて動くようにはなったが、完全には治らなかった。そんな中でのはじめての妊娠、出産は喜びよりも不安のほうが勝っていたというより不安だらけだったろう。生まれてくる子は一家の希望の星となるはずが、何事も予期できないという意味では心配の種だったか。

もっぱら私の世話をしてくれた祖母は、父の養母で、戦前は大阪・天王寺で何人もの使用人を使って手広く米穀商を営んでいた。ところが戦時統制の進行による米の入手難などで商売に見切りをつけざるを得なかったところへ、夫の愛人に子供ができて離婚。郷里の広島県天応村(現・呉市)にも近いこともあって出征した息子の嫁である母と同居していた。

「天花粉事件」はこうだ。脱腸の私は股のあたりが擦れることもあって、オムツ交換のたびに下腹部を入念に拭きあげ、天花粉、つまりベビーパウダーですね。祖母は大阪での生活が長かったこともあって天花粉と呼んでいたが、それを毎回、丁寧にはたき付けてもらうのもストレスだったのか、祖母が見えなくなった隙に、畳の上に置かれていた天花粉の缶を窓から放り投げた。1階の屋根を缶が転がりながら中身をまき散らして落ちていった。通行人がいたら驚いたでしょうね。以前から放り投げたおもちゃなどが道路に落ちていて届けてもらったりしていたことはあったが、缶ごと天花粉が降ってきて、通行人に当たったりしたら大変なことになったはず。伝え歩きをしていたころだから、いわゆる腰高窓から缶が落ちていくのが見えたわけではないのになぜかその情景をスローモーションのように思い出すのは、祖母から繰り返し聞かされたからだろうか。

学齢前に予定していた手術は早い方がよかろうと、入院先は原爆ドームのすぐ近くで病院を再開していた島病院に決まった。「広島外科界の父」といわれた島薫院長には母も手術でお世話になっていたらしく、安心できたこともある。通うことになっていた「宗像さん」と呼んでいた出先森神社境内の「小さくら保育所」に入る前の2月に入院し、院長みずから執刀してもらった。しかも同時に虫垂も切ったとかで、2週間ばかりベッドに寝たままで過ごした。付き添いの祖母に頼んで病院備え付けの漫画『サザエさん』を借りてきてもらったが、笑うたびに腹がよじれるのか、痛みが出るのには閉口した記憶もある。後遺症?としてパンツに隠れて見えないものの萎んだ陰嚢が妙に垂れ下がっていたのが恥ずかしかったが、そのうち皆と同じようになって一安心となった。

そういえばあの脱腸帯は新聞紙にくるまれて長いこと押し入れの隅に置かれていた。再発を心配して置いていたというより、物資欠乏の時代で、しかも父が公職追放だったこともあって貧しかったわが家にとってはよほど高い買い物だったからだったか。幸い、続けて生まれた弟と妹も脱腸とは無縁だったので「おさがり」として使われることはなかった。

昭和22年1月16日、広島県生まれ、中央大学法学部卒。読売新聞記者を経て京セラへ。関連会社の常勤監査役退任後は公益財団法人の理事に就任。ライターとしては脳内同居人=石山文也、蚤野久蔵、渡海壮の名で書評などを『web文源庫』に連載中。半世紀以上続ける趣味のカヤックは、激流下りから海に転じ、9海峡を渡る。

 
 

おとなはみんな子どもだった

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