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地下に輝く黄金の上で

                                          成田守正

地下に輝く黄金の上で育った。滅すればそこへ帰る――と口には出さないものの、内心では思ってきた。三歳から十三歳まで宮城県の大谷鉱山という金鉱山(一九七六年閉山。製錬所の廃屋が山の斜面に張り付くように残っている)で月日を数えたからだった。

鉱山は、採鉱夫たちが自転車を引き、沢の上流へ向かう朝のざわめきで始まり、始業のサイレンが鳴り、夕方にまたサイレンが終業を告げ、帰宅を急いで砂利を弾き飛ばしながら下っていく自転車のキーキーと耳につくブレーキ音で一日を終える。坑口や会社の建屋、唯一の買い物店である供給所、グラウンドやテニスコートは上の高台に集まっていて、所長や課長の大きな家が近くにあり、あとは沢の下方に向かって一軒家、二軒屋、長屋と役職の差にはあまり関係なく社宅が立ち並んでいた。社宅はどれも平屋のスレート葺きで、外壁は下見板の打ち付け、雨戸はなく、冬にはよくガラスの引き窓と障子の隙間に雪が舞い込んできた。どの家にも周囲に広い庭というか畑と花壇が付いていて、わが家では胡瓜、茄子、ジャガイモを作り、桃の木を二本植え、毎年自然に生えるイチゴ畑が備わっていた。花壇では他の社宅でも不思議にそうだったが、ダリヤやカンナや鶏頭がおもに咲き、たぶん会社がとりまとめて球根や種子を配ったのだとおもわれる。

会社は社員の生活援助に熱心で、電気代がタダのほか、秋の早朝には大型トラックが元気なオバサンたちを荷台に乗せて気仙沼港へ向かい、サンマの仕分けのアルバイトをさせ、帰りはバケツ一杯のサンマを獲物に凱旋させた。お裾分けで一時期、ぬた(刺身にはしなかった)、開きの焼き物、ミンチにかけてハンバーグなど、食卓も弁当もサンマ三昧の日がつづいた。

 小学生になると朝の七時二〇分と八時二〇分、午後一時一〇分と四時一〇分しかない鉱山回りのボンネットバスで 未舗装の道をガタガタと三十分ほど、海辺の校舎へ通学、帰宅する毎日だった。バスにすし詰めになるからか鉱山の子供たちの部落意識は固く、おもに農業漁業に携わる他の家族の同級生には負けまいとする気分があった。どの学年も成績上位を鉱山の子供が占めたが、そのぶんいじめられる者もいたらしい。全国から集まった鉱山の子供は沢では標準語を、学校では東北弁で喋るが、国語の試験でカナを振れという問題が出れば、地元の子は「最初」なら「せえしょ」、「脅迫」なら「ちょうはく」と答えるので、点数で差がついてしまう。遊びは、鉱滓をならして固めた広大なグラウンドでのソフトボールや、部落内でのチャンバラ合戦に加わったりしたが、けがをしたときの親への言い訳には苦心した。戦中、戦争に金は不必要、鉄や銅、石炭を産出する鉱山へ労働力を回すべきとする金山整備令によって一旦休山となり、徹底的に破壊されたいわば廃墟の共同浴場跡や大小使用目的不明のコンクリート槽、住居跡の土台が、子供の遊び場になっていた。そこに集まってメンコを打ち、冶金の人が作ってくれる鉄のタガ回し、缶蹴りや三段跳びごっこ、また裏山で春ならワラビ採り、端午の節句には柏の葉を集め、夏には木イチゴを食べに、秋には栗拾いやハツタケなどのキノコ探しと、することには事欠かなかった。

 思い出深いのは、父親の転勤で到着した三歳の日、臨時に泊まった合宿と呼ぶ建物の前に広がるグラウンドの地面といわず建物の屋根や電線、ススキや雑草の葉、足元まで、びっしりと赤トンボが埋め尽くしていたことだ。空中の高いところでは、山の端に沈んだ太陽の残照をうけた一群が赤と陰色の点描で煌めいていた。人生の入り口の記憶である。トンボの大量発生はその年を最後に失われていくが、本格稼働に入って一年中ゴンゴンと低い唸りを轟かせる製錬所の吐き出す廃液が、川や沼に入り込んでヤゴを殺すせいと推測されてもいた。

 坑内火災は、学校が三日間の旧正月休みに入る前日の、雪が降り出している寒い朝に起きた。どの家も朝食を囲んでいると、定刻には早すぎるサイレンが沢に鳴り渡った。父親をはじめ隣家や下の家からも人が出、雪の幕に遮られて見えない上のほうへ、不安な眼差しを向けた。子どもたちが停留所でバスを待つあいだに、白い幕のむこうから、小柄なほお被りをした人影か降りてきた。一人が「なんだべさ」と方便で呼び止め、ほかの者もむらがると、「坑内の火事だねす。二つの坑口さ、真っ黒い煙、もうもうと出てるねす」と声が返り、ショイ籠を背に両腕を胸に縮めて、下へ消えていった。夕方、学校から帰ったときには、午後の早い時間、雪の上がるのとしめし合わせたように鎮火したとかで、製錬所の斜め上側の坑口に、なごりの白煙が立ちよどんでいた。淡い夕焼けが庇のようにかかる西空の下、坑口の縁からむら雪の山肌をおおって稜線へ延びる黒い巨大な舌が、噴き出してきた煙の勢いを想像させた。

 交通事故に遭ったのは小学五年の春だったか、秋だったか。海岸で男子三人で遊んでいて最後の鉱山回りのバスに乗り遅れ、しかたなく海沿いの道をとぼとぼ歩いていると、見覚えのある鉱山の小型トラックがやってきた。三人でばらばらに「のせてー」「のせてー」と手を振り、乗せてもらえることもたまにあるので必死に叫んでみると、止まってくれた。三人は喜んで荷台に飛び乗り、前方の景色が見える運転席の後ろのでっぱりにしがみついた。当時はすれ違う車も少なく、やがて直角に曲がって鉱山への沢道に入り、部落の砂利道を進んだ。車輪が路肩を踏み崩したのはあっという間のことだった。車体はそばを流れる川土手の斜面に転がり落ち、三人とも浅いとはいえ川水の中に投げ出された。幸い軽い打撲とズボンが濡れただけでけがはなく、事故の発生はたちまち部落中に広がったものの、鉱山内部での出来事として処理された。しかし転落したときの二回、三回と回転する様子が恐怖のスローモーションでよみがえって瞼に焼き付き、運転手も鉱山一の技量といわれていただけに、どんな運転名人でも事故が起きるときは起きるという考えが、のちのち今に至るも変わっていない。

 故郷である旧鉱山を訪ねたのは五十歳半ばの頃だった、閉山になってからも三十五年が経っていた。一関から気仙沼を経て小学生のときに開通した気仙沼線小金沢駅で降り、歩いて沢を上った。社宅はすべて撤去され草むしていたせいで、自分たち家族が住んだ場所は特定できなかった。建屋の集まっていた高台の下まで来るとふっと煙草のにおいがして、振り返った。見ると高台とをつなぐコンクリートの長い階段のすぐ左側、神社への急な石段の入口がある場所の横側に山裾を切り込んだ人工的な空間があって、そこに一台の車が停まっていた。横に一人、制服のような青っぽい色の作業着の男が煙草をくわえて立っていた。

 会釈をしながら近寄ると、「こんなところにリュックを背負った人が一人で現われたので、なんだろうとおもいました」と先に声をかけられた。

「こちらこそ、いままでだれにも会わなかったので、びっくりしました」愛想よく合わせた。「今日は、見回りですか」

「ああ、そうじゃないんです。私は役所の者です」言いながら神社の入口のほうへ歩き出し、石段を下からのぞき、十数段登ったあたりを指さした。

 神社はサンジンシャと呼びならわされていた。漢字で山神社と書くが、百二十段ばかりの急な石段が一直線に延びて境内に続いていた。境内といっても社殿とその手前にテニスコート一面ほどの赤土の前庭が森に囲まれて広がっているだけのものだった。社殿は赤いペンキ塗りのブリキ屋根と正面に張られた注連縄がなければふつうの小屋と変わらなかった。

男の指の先に見えたのは一部分がえぐられたように崩れた石段だった。

「あそこの修復をすべきかどうか、その場合どれだけかかるのか、費用のことですがね。危険なので、ときどきハイカーが入り込みますから」

「石段が崩れたのですか」

「一昨年、爆弾低気圧が通って、すごい雨風だったんですが、そのときそこの並木の杉が一本、倒れたんです。倒れたときに根っこが石段を跳ねあげて壊したってことです」

「なるほど」人影の消えた神社であれば二年近く放置されても、やむをえないことだろう。

「杉は二まわりほどありました。製材業者に引き取ってもらったんです。ところが後日、製材所の社長から電話がありましてね。皮を剝いで角材に取ろうと鋸にかけたら、一カ所から髪の毛が出てきた。太柱を四本取るつもりだったが、それで一本は駄目になった。とはいえ珍しいので見に来いというのですよ」

「髪の毛が、ですか。それはなんでまた」

「ほら、丑の刻参りってやつです」

「丑の刻参りって、ここで、ですか」おもわず目を丸くした。

「ええ、ここに植わっていた杉に秘めていた髪の毛ですから。わたしも見せてもらいましたが、長いのが数十本もつれあっていました。幹の材部がそれを外側から何層にも呑み込んだので、外からはまったくわからなかった、戊辰戦争のときの銃弾が出ることはあるが髪の毛はめったにないだろうと、社長はうなっていましたね」

 戦後に再開された鉱山は閉山へ向かう流れにあって、まがまがしい出来事はいっさいなかった。

 休山を強いられ一旦廃墟となるまでの戦前、千三百人余が暮らしていたという全盛期の時代はどうだったのだろう。人が多ければ猥雑さは増すだろう。男女のもつれがあっても不思議はない。だれもが寝静まった深夜、こっそり家を抜け出して神社の石段をのぼる白装束の女がいる。これと決めた杉の幹に持参した藁人形を掛け、その五体に鉄釘を打ち込む。藁人形の中には怨む相手の髪の毛が入っている。死ね、死ね、死ね、死んで地獄に堕ちよ。ぎしぎしときしむようなかすれ声が山闇の中へ消えていく。釘の先にひっかかった髪が年輪を突き破って幹の奥へと食い込んでいく。呪いは一本の杉の木の中にこめられ、休山になり、廃墟から再開され、閉山になり、それからも長い時間を、人知れず眠りつづけてきたわけだった。

1947年生
フリー編集者、作家。宮城県生まれ。早稲田大学第一文学部卒、鉱山者「小説現代」「群像」編集部。1986、フリーに。作品に『光の草』『セビリアンジョーの沈黙』『「人間の森」を撃つー森村誠一とその時代』などの著書がある/

 
 

おとなはみんな子どもだった

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