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戦争の風景

広島原爆ドームの画像

寺本幸司(音楽プロデューサー)

昭和十二年(一九三七年)七月七日、中国の北京市郊外の永定河にかかる盧溝橋で日中両軍が衝突し、太平洋戦争に繋がる日中戦争の発端となった。妻子ある者を問わず、日本全土に徴兵令が下り、多くの男たちが中国に渡った。日本の昭和十三年生まれの出生数は、一九二万八千三百二十一人で、昭和一〇年代で唯一、二〇〇万人を割った。

その昭和十三年八月六日、隅田川河口にある月島の陶器商の家に生まれた。

四歳の冬、一九四二年十二月八日、太平洋戦争が勃発した。戦争にまつわる記憶のはじまりは、戦勝祝いの提灯行列と長兄の出征場面での隣近所のおじさんおばさんたちの「万歳!万歳!」三唱とラジオから流れる大本営発表のアナウンサーの厳かな声だった。いつも日本は勝っていた。

佃島に隣接する月島は、埋め立て新開地で路地裏までアルファルト地面だった。蒲福(かまぼこや)と伊藤薬局の間の路地で腹ばいになってローセキで、戦艦大和やゼロ戦とB29の空中戦なんかを描いていた。ときおり買いもの帰りのおばさんがしゃがみ込んで、「ユキちゃん、絵上手だねえ」なんて耳元でいわれると、サッサッとのらくろ二等兵を描いたりする。と、たいがいのおばさんが五〇銭玉をくれた。その五〇銭玉で、駄菓子屋の店先にある七輪の上のもんじゃ焼きにありつける。

そのうちB 29がひんぱんに飛来するようになり、お米が配給制度とかになって、毎朝、買いに行かされる豆腐と油揚げも予約制になったりして、千人針とかいう白い手ぬぐいを持ったおばさんたちが走り回るようになった。電信柱に「欲しがりません、勝つまでは、」なんて貼り紙が風にバタバタするようになり、生まれて初めて覚えた漢字が「鬼畜米英」の四文字だったりした。家のまえに防空壕が掘られ、用水桶に水が張られた。空襲警報のサイレンが、朝から晩まで鳴るようになり、幼稚園も閉鎖された。

一九四五年三月十日の東京大空襲。鳴りつづけるサイレンの音に、二歳の弟を抱いた母親と姉兄たちと防空壕に降りて、乾パンを齧りながら外の音に耳を澄ませていた。爆弾は怖かったが裸電球一つ下で家族が寄り添うようにしているのが、何だか嬉しかった。夜になって、サイレンの音が間をおくようになったので、「外に出ちゃダメよ」という母親の声を背に防空頭巾をかむって外を覗いて見た。すると銀座の空が真っ赤に染まり、強い西風に乗って無数の火の粉が隅田川を超えて、月島の空に降りかかっていた。父親のことが気になって上半身を伸ばしたら、父親と長姉が二階の屋根の上から降りかかる火の粉を箒で掃いていた。それが銀座の空から降ってくる火の粉の雨と混ざりあって、花火の真ん中にいるような気持ちになった。「わあ、綺麗!」と大声を出したものだから、兄に階段から引きずり下ろされた。

何年か経って、屋根で火の粉を掃いていた姉に、「なぜ、月島に焼夷弾、落ちなかったのかなあ」と訊いたら、「対岸の明石町に聖路加病院、あるだろう。聖路加の屋根に大きなグリーンの十字架が描いてあって、そこを避けたから月島は助かったみたいよ」と教えてくれた。

十日から三日も経った頃、東京中が焼け野原になった、というニュースに母親が、弟の「本所の店は、どうなっただろう」と何度も口に出すので、六歳年上の兄が、「行き着けるかどうかわからないけど、自転車で行ってみるよ」といいだしたので、「ぼくも行く」と母親の反対を押しきって、自転車の後ろに乗せてもらった。中之島から門前仲町あたりまで行ったら、小名木川のまわりに人だかりがしている。

橋の隅から見下ろすと、川を埋め尽くすように死んだ人が浮いていた。それを木場の職人たちが、筏のようにくくりつけられた材木の上から、鳶のようなもので死体を引き上げている。頭の毛が燃えた死体が多く、ほとんど服を着たまま浮かんでいた。後で知ったことだが、町中が燃えて炎に追われた人たちは、みんな小名木川に飛び込んだ。そこへ両岸から炎が流れ込み、火の川になる。ほとんどが窒息死だったという。

膝が震えた。「もう帰ろうよ」といったら、兄は怒ったようにペダルを漕いだ。深川一中近くまで行くと、異様な臭いが鼻を突いた。校庭に何台かトラックが止まっていて、その真ん中に死体の山が二つ。その一つが燃えていた。遠くから見ただけだったが、人間の死体の山が燃えているというよりも、人間の形をした物体が燃やされている奇妙な光景に見えた。「ユキジ、帰るぞ」とハンドルを切ると、兄は月島に向かって立ち腰でペダルを漕ぎはじめた。あわてて腰にしがみついた。

 両親の出身地である島根県大田市志学村に疎開することになった。父親と長女は残り、母親と二歳の弟と兄と二人の姉の六人、東京駅で六時間待ちして、満員すし詰めの汽車に乗った。通路ばかりでなくトイレの前まで人が座り込んでいるので、座席の下に潜り込んで、牛乳瓶におしっこをした。

 三瓶山の懐にある志学村は、時々、中国山脈を超えて行くB29が空高く飛んで行くくらいで、東京の大空襲が嘘のようにのんびりした空気が漂っていた。

 志学小学校に入学。ランドセルはなかったが、父親が入学祝いに買ってくれたピカピカの革靴を履いて登校した。革靴を履いているのは、ぼく一人。上級生たちも集まって来て、「東京の靴や!」としげしげ見つめ、まわりに歓迎の笑顔が弾けた。嬉しかった。

昭和二十年(一九四五年)八月六日、この日で七歳になった。二年上の豆腐屋の信ちゃんと榎のトモちゃんが、誕生日祝いに三瓶高原にあるため池海水浴に連れて行ってくれるので、母親が作ってくれた三人分のおにぎり弁当を持って八時過ぎ、志学小学校へ行った。

信ちゃんとトモちゃんは、鉄棒で懸垂をやっていた。誘われたが、ひ弱な都会っ子は懸垂なんて一回も出来ない。しばらく見ていたら、とつぜん、鉄棒にぶら下がっていた二人が、「何や、あれ!」と大きな声を出した。振りかえった。広島につづく山並みの向こうの空に、銀紙のような不思議な雲が張り付いていた。二人が走り出した。「待ってよ~」と後を追いながら、職員室の上の大時計が、八時十六分だったことを覚えている。

 新型爆弾が広島に落ちたという噂が広まった。そのうち広島との中国山脈の県境を越えて、何台ものトラックに乗った顔や手足がただれた病人たちが、志学村を通り過ぎるようになった。後で知ったのだが、島根から広島に出稼ぎに行っていた人たちが被災して郷里に帰り着きたい、と乗ったトラックだった。三月十日の東京大空襲の後、深川で見た死体と違って至近距離で見たせいか顔が判別できないほど焼けただれた人たちは怖かった。が、母親に「見るんじゃないよ」といわれていたのに、トラックが通り過ぎるたびに、近寄って見上げていた気がする。

 八月十五日、学校の校庭で、天皇陛下の玉音放送を大人たちに交じって聞いた。何を言っているのか解らなかったが、壇上の校長先生が声を出して泣いているのが不思議だった。

 翌年の春、三瓶高原に、オーストラリアの軍隊が駐屯するようになり、子供たちは遊び場を失った。十六歳になっていた次姉が、何人かとチームを組んで進駐軍のキャンプでアルバイトをするようになり、母親の心配をよそに、「みんな親切でいい人ばかりよ」とチョコレートや缶詰を持って帰って来てくれた。

 一九四八年三月、父親が迎えに来てくれて、月島に帰ることになった。志学村から大田まで行くトラックの荷台に乗ったところへ、豆腐屋の信ちゃんと榎のトモちゃんが見送りに来てくれた。東京へ帰りたい気持ちと帰りたくない気持ちとが混ざりあって、人前ではじめて泣いた。

月島第一小学校四年に編入した。月島は焼けなかったので、軒並み寺本セトモノ店のある西仲通商店街はむかしのままだったが、勝鬨橋の築地側にあった商船大学が進駐軍の警察「MP」の本拠地となっていて、アメリカ兵たちが行きかい、月島の面影は消えていた。

 ジープに乗って視察するMPは、たいがい白人と黒人兵の二人組で、三瓶高原のキャンプで、オーストラリア兵を見たことがあったので白人には驚かなかったが、はじめて黒人を見たときには、びっくりした。

 いちど、隅田川沿いの裏道でベーゴマをしながら遊んでいると、けたたましくサイレンを鳴らしてMPのジープが来た。すると六軒先の長屋からズボンを引き上げながら裸足のアメリカ兵が逃げ出した。すると、ジープを降りた黒人のMPが、「ストップ!」と大きな声を出して拳銃を構えた。白人の男は逃げる。その脚を目がけて、黒人のMPが撃った。ふくらはぎを撃ち抜かれて、男は倒れた。

 その後のことは覚えていない。パンパン(進駐軍相手の売春婦)が、長屋の二階を借りてアメリカ兵相手に商売をしていたようだ。ただ、あの黒人兵の「ストップ!」と叫んだ声と拳銃を構えた格好は忘れられない。

 アメリカ兵にしなだれかかったパンパンの姿は、街でよく見かけた。たいがいパーマを隠すように頭にスカーフを巻いて、水玉模様のスカートをはいていていた。

 あれは五年生になったばかりだったから、一九五〇年の五月頃だったと思う。高射砲陣地のあった浜離宮の池のまわりは元の姿に戻っていたが、まだ東京湾に面した半分くらいは立ち入り禁止の鉄条網がはりめぐらされていて、中は手付かずの森のようになっていた。「探検!探検!」とよく鉄条網をくぐって遊びに行った。立ち入り禁止の森の真ん中に、少し開けた草地があって、大きなブナの樹が立っている。このブナの樹に登ると、お台場が見えるので、よく登った。

 その日も一年上の佐藤くんとブナに登って、お台場見物していたら、カラダの大きな白人兵と赤い水玉模様のスカートをはいた女が笑い声を立てて森の中から出て来た。あたりを見渡してから、女がブナの樹の下に模様のついた毛布のようなものを広げ、その上からアメリカ兵の名前を呼んだ。

 二人は抱きあい音を立てて唇を吸いあった。女は横になり、アメリカ兵はズボンを脱いで、女の水玉模様のスカートをめくって、覆いかぶさった。その時、横にいた佐藤くんが震えだし、枯れかかった葉を下に落とした。仰向けになっている女が、こちらを見上げて声をあげた。振り返ったアメリカ兵もこちらを見上げた。怒声をあげると、丸出しの尻にズボンをずり上げながら、樹を揺すぶりはじめた。効果がないとみるや、辺りの小石を拾って投げつけて来た。その一つが佐藤くんの脚に当たった。怖かった。「ごめんなさい!」「ごめんなさい!」と泣きながら叫んだ。すると、女が男にしがみつき、英語交じりのコトバで「赦してやって!」と哀願した。アメリカ兵は、女に手を引かれながら森の中に消えた。しばらく二人ともブナの樹から降りられなかった。

 七十四年の時を経た今も、あの見上げた女の眼と水玉模様のスカートは、リアルに眼前に蘇る。

寺本幸司 音楽プロデューサー 浅川マキのデビューを演出

 
 

おとなはみんな子どもだった

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