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ターザンと蝮と母のこと

 中村幸雄

 

ボクが生まれた育ったところは、埼玉県南西部にある所沢市です。自慢できる産業も名物もなく、極めて地味な土地柄です。初めて会った人たちの前で自己紹介するとき、「生まれは有楽町です」というとかなりの確率で、「ほう!」と声があがりますが、続いて「所沢市の」で失笑に変わります。もちろん「有楽町」は実在しますし、地方都市に必ずあった「銀座通り」もありました。

その所沢市の中央を二分するように、東川(あずまがわ)という小さくて汚い川が流れています。

水の流れる幅は二メートル強、土手と土手の幅は約三、四メートル、土手の高さが三メートルほどです。この川には、対岸に渡るために、二、三百メートルごとに石造りの橋が架かっていましたが、回り道が面倒くさいのか、当時の有楽町には料亭が数軒あったので、遊びにいく人が行き来するのに利用したといわれる欄干のない板張り小さな橋がありました。

その小さな橋の袂に一本の蔓が下がっていました。両側は崖になっていて、一方は切り立っており、直下を水が流れています。反対側は崖もありますが、三、四畳ほどの砂洲のようなちょっとした空き地があります。

何人か子どもが集まると、蔓をつかんで川を飛び越して対岸の砂地に着地する、という単純な遊びが流行っていました。空中で

「ア~ア~ア~」

声を上げられれば拍手喝采。当時流行していたターザン映画のジョニー・ワイズミュラーを気取ってのものでした。なかにはブランコのように往復する者もいて、一目置かれます。ターザンごっこには女の子もいましたが、飛ぶのは男の子だけで、ターザンの相手であるジェーン役になる女の子はいませんでした。

蔓をつかんで川を飛び越え、着地して崖を登って橋を渡りまた飛ぶ、という単純な遊びでしたが、飽きずに夕方まで遊んでいました。

ただボクは度胸がなく、飛んだのは一回だけ。あとは見物だけでした。でも、皆は強制したり、仲間はずれにされることはありませんでした。

遊び場を提供してくれた東川ですが、ボクに残っているのは、少し大きめのドブ川でしかありません。水は濁っているし、魚など一匹もいない川です。漬け物石大の石があちこちにあり、そこに流れてきた草やゴミがひっかかっています。

多くの人がイメージする故郷の清流とはかけ離れた町中の川でした。今の東川はボクたちが遊んだ場所より、二、三キロ下流でも水遊びができるほどに水質が向上しているようですが、ボクには東川で遊ぶ気にはなれません。

当時、遊び方には三通りありました。一つは同学年あるいは同級生。二つ目は前述したターザン遊びや草野球、チャンバラごっこや鬼ごっこなど女の子も入れ、年齢も四、五歳から小学の上級生までがグループで遊べるもの。三つ目は各家庭での遊びでした。雨の日などは兄弟があれば各自の家で遊びます。ボクは一人っ子だったのでもっぱらマンガ本か家にあった小説でした。南洋一郎の冒険小説でワクワクした思い出があります。

同学年や近くの同級生が集まり、時間があれば八国山まで出かけます。八国山は所沢と志村けんの出生地である東村山市との境にある丘陵です。麓には「勢揃橋」、丘の上には新田義貞に由来する「将軍塚」、小手指ケ原(こてさしがわら)の古戦場跡など「太平記」に登場する地がいくつかあるのですが、乱開発が進みすぎて、もはや名のみとなっているだけです。

八国山は前述したように、埼玉と東京西部の境になる丘陵で、雑木林の間を縫うように続く道があるだけの何もないところです。そこも歩きます。ただひたすら歩きます。

八国山の東側(将軍塚に近いあたり)から入って、荒幡(あらはた)の富士と呼ばれる富士山形をしたところまで行き、そこで帰るか、余裕があれば山口(今のベルーナ球場)近くまで足を伸ばします。七、八キロくらい歩いたでしょう。雑木林のなかを一列になって、「少年探偵団」を歌い、落ちていた小枝を刀がわりにして振り回しながら歩きます。それがボクたちの遊びでした。ただ、八国山は蝮が多く、春から夏は危険な山でした。でも、グループのなかには物知りがいて、「ヘビはとぐろを巻いていたら安全。とぐろを巻いてなく頭をもたげていたら注意!」と教えられました。体長二十センチくらいのとぐろを巻いた蝮の上を跨ぎ越えましたが、全員セーフ。それ以後も、遊び仲間でヘビに噛まれた子はいなかったから、今でもその話は信じています。

ボクの少年というか幼年時代は、人さまに言えるようなことは何もありません。小学校四年になるまで、ボクの体重は十七キロから十九キロの往復で、ほぼ月に一度は熱を出して寝込んでしまう虚弱体質でした。一人っ子のボクが熱を出すと両親は心痛し、ワガママをほとんど叶えてくれます。おまけに母は長女で、近くには実家があり、弟妹はすべて独身だったこともあり、玩具がわりにされ、一方的に可愛がられた結果、甘えん坊で、ワガママに育ってしまった一因かもしれない。これはボクの一方的な責任逃れです。学校をひける時間をみはからって、母は家の前で待ってくれています。母の姿をみると

「かーちゃん、おっぱい!」

ランドセルを外す前に、母の乳房にかじりついていました。朝と学校帰り、お風呂で母は顔を洗ってくれます。百四十センチと背が低い母の掌は小さかったと思いますが、ボクにとっては、とても大きな掌に思えました。母の大きな掌を越えられるのか?真剣に考えていた時代がありました。

こんな少年時代だったので、女の子を意識したことがなく、初恋はまだまだ遠いものでした。

元・大陸書房 文芸編集者

 
 

おとなはみんな子どもだった

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