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母のこと、そしてあの時

藍野裕之

 

4歳ちがいの弟とお袋を病院に連れて行った。腰は曲がり、杖を突いて歩くのにも苦労していたが、まだ手を引くほどではなかった。駐車場でお袋をおろし、前を歩くお袋にふたりでついて行った。「ずいぶん小さくなったな」と弟がわたしの顔を見ながらいった。耳も遠くなっていたので、お袋には聞こえなかっただろう。それほど広くない車道を渡るとき、「しっかり歩んだよ。車に気をつけるんだよ」とお袋がいった。50歳を過ぎた兄弟は顔を見合わせ、笑ってしまった。結局、3人でいっしょに外を歩いたのは、これが最後となった。

お袋はよく昔話をした。こちらが求めるでもなく、いって聞かすふうでもなく、いつも何とはなしだったが、どういうわけなのか、わたしはけっこう覚えている。東京・龍泉寺でお袋は生まれた。台東区がまだ下谷区といっていた時代である。吉原の近くで、「大門の中には入っちゃいけないよ」といわれながら育ったそうだ。父親は新潟から出てきた旋盤工の親方で、暮らし向きはまあまあよかった記憶があるといっていた。ところが、お袋が5歳のときに父親は脳溢血で急逝した。姉、兄、それに妹がふたりいたが、いちばん下の妹は養女に出さざるを得なくなった。そして、戦争である。やがて母方の親戚を頼って家族全員で埼玉の野火止に疎開した。いまの新座市である。

終戦のとき、お袋は小学6年生だった。年が明けると担任の女の先生が自宅まで来たという。「もうすぐ中学が義務教育になるから上がっておいたほうがいいです」といったらしい。先生は何度も来たそうだ。しかし、先生の進言にもお袋の決心は変わらなかった。中学には上がらず奉公に出た。誰が世話してくれたのかは聞いていない。幼子を4人抱えた祖母さんは戦争末期に後添えを得たが、戦争が終わると後添えは家で毎晩のように賭場を開くようになったそうだ。祖母さんの苦労を思っただけではなく、家を出たいという気持ちもあったのかもしれない。お手当は祖母さんのもとに毎月届けられたらしいが、「博打に消えたんじゃないの」といっていた。

「奉公って何?」と聞いたことがあった。「台所の手伝い、掃除、子守り、それからお使い」といっていた。これはわたしが大人になってからだったが、「小学校を終えようというとき、人買いが来たんだよ。あれはたぶん向島の鳩の町のもんだったよ」とつぶやいたことがあった。かつて行っちゃいけないといわれた廓の中だったが、その中の人に自分がなるところだったのだ。奉公先は元日本軍の将校の家だった。赤線や青線に送られる難を逃れたわけである。運がよかったとか、悪かったとかいうのは聞いた記憶がない。奉公先は実家からそう遠くなく、ときどき実家に帰らせてくれたらしい。何しろ13歳だ。預かるほうは里親のような感じだったのかもしれない。よく元将校の幼子を背負い、雑木林を抜けて農家に野菜を買いに行かされたらしい。追い剥ぎが出るとの噂で、暗くなりかけた帰り道は怖かったといっていた。

仕事をしていないお袋も記憶はない。わたしたち兄弟が幼い頃は内職をしていた。電気機械に組み込まれる太いの細いの合わせた何色ものコードを、それぞれ設計図の通りに組んでいく仕事はよく覚えている。「ダイダイ色の極細A2からT4」などと指示書を声に出しながら読んで組み込んでいた。わたしはその様子を見ているのが好きで、、どきどき、分からない字を聞きながらお袋に代わって指示書を読んだ。「女も働かなくちゃ。自分で稼げば自由でしょ」とは何度も聞いた。何が癇に障ったのか、親父はカッとなって内職を家の外に放り投げたことがあったらしい。お袋は黙って拾いに行き、素知らぬ顔でまた内職を始めたそうだ。

学校に上がっても、あまりにわたしが宿題をやらないものだから、内職する台の傍らに茶ぶ台を置かれ宿題に向かわされたことがあった。厳しい監視の目を向けられた。思わずつぶやいてしまった。「学校なんてなければいいのに」。後頭部にゲンコツが飛んできた。奉公先の元将校は、「これからは英語だ」といって、外国人が神父を務める教会で日曜日のたびに開かれる英語塾に通わせてくれたそうだ。老いても「I think so」などと口走ることがあった。英語塾が功を奏したのかどうかは知らないが、お袋は16歳で年季があけてしばらくすると、進駐軍を専門に乗せるバスの車掌になった。埼玉の朝霞市に米軍キャンプがあり、池袋駅を経由して東京駅まで。この間を往復する路線だったという。

どうやら朝鮮戦争の頃である。兵隊たちは池袋や銀座の繁華街を目指したのだろうか。みんな若い。兵隊たちは同じような年齢のバスガールたちに声を掛け、休日の遊びに誘ったようだ。やれ軍用ジープに乗って夜の湖畔をドライブしたとか、ピクニックに行ったとか、キャンプの中のダンスホールで踊ったとか、お袋は楽しかったことばかりを話した。ダンスホールには生バンドが入っていて、ときどき日本人歌手が歌いに来たそうだ。「フランク永井はキャンプで初めて聴いたよ」。お袋はキャンプで聴いた音楽をすべて「ジャズ」といっていた。当時の写真が何枚かあり、お袋が亡くなった後わたしが引き取った。モノクロ写真の娘たちの唇は濃い。真っ赤な口紅だったのだろうか。どこでそんな化粧を覚えたのだろうか。娘たちは、みんな着飾っている。たぶん、精一杯に。

バスの運転手たちとも、よく出かけたようだ。葉山あたりだろうか、大勢で海辺に並んで笑っている写真もある。進駐軍から旅行の特別注文でもされたのか。もしかしたら会社のバスを使って若い社員だけで行ってしまったのかもしれない。バス会社は大らかだったようだ。親戚ぐらいタダで乗せてやれっともいわれたらしい。お袋は兄をよく乗せてあげたといっていた。伯父は池袋の建設現場で働いていたことがあったという。朝霞のキャンプの少し先に住んでいたから渡に船だったのだろう。あるとき、池袋から乗り込んで来た伯父は、ひとり現場で知り合った若いのを連れていた。ニッカズボンに地下足袋、Tシャツの上から半纏をはおった鳶。それが初めて会う親父だったそうだ。

進駐軍を専門に乗せるバスは、朝鮮戦争が停戦してほどなくしてなくなって、バスガールたちは雇い止めになったようだ。お袋が勤めていたのは、いいとこ3年か。東武東上線に志木駅というのがある。バス会社を辞めた後その駅前に、お袋はバスガール仲間3人で小料理屋を出した。「こけし」という名だったそうだ。そこそこに繁盛したらしい。その日の売り上げをずた袋に入れて農家の間借り部屋に帰り、3人で均等に山分けしたという。月極の給料とちがい、娘たちは、ずた袋が軽ければがっかりし、重ければうきうきしたそうだ。

あれは、もう5年生ぐらいになっていのかもしれない。毎年恒例の同窓会について行かされた。梅林にゴザを敷いて少し肌寒い花見だった。それぞれの子どもたちは普段は会っていなかったので、間合いを取り合っていたが、そんなことはおかまいなしで元バスガールたちは車座になって口を大きくあけて笑っていた。伯父もお袋の仕事仲間を嫁さんにしていたので、子どもたちのなかには従兄弟もいた。わたしは3歳上の従兄と弟とで梅林の隅に座って、話が尽きることのないお袋たちをぼんやり見ていた。

1962年東京都生まれ。法政大学文学部卒業後、広告会社勤務を経てフリーで編集、執筆をする。現在、京都市在住。

 
 

おとなはみんな子どもだった

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