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北国から  石井紀男

石井紀男
昭和十五年一月一日生 北海道上川郡剣淵町出身 中央大学文学部仏文科卒 フリーライターを経て徳間書店に入社、文芸編集部門を担当、退職後コニカミノルタのPR誌『月刊遊歩人』の編集を経て、現在に至る。

 

私の郷里、北海道はもう雪になっているだろう。最近は雪の量も少なくなっているようだから、まだ根雪にはなっていないかも知れない。かつては十二月ともなれば、完全に根雪で、野原も道路も真っ白になる。酒類食品雑貨商という田舎のなんでも商う店が生家だった。
雪の降った朝は、取り敢えず店の前の五十センチ以上ある雪を、お客さんの為によけなければならない。これが毎朝の日課だった。
寒いなんてものじゃなかった。
「雪は、嫌だった」
そんな雪深い田舎で育った。

なにしろ病弱だった。
小学二年生で、大病を患った。肺結核の一種で肺に水が溜まる膿胸が病名だった。
道央の旭川市が一番近い都会だったが、当時は宗谷本線で二時間はゆうにかかった。
近くに入院する病院などはなくて、自宅で寝かされて十カ月。
学校の担任の先生も代わった。友達もいなかった。遊び相手と言ったら、ちょっと太った猫くらい。
少し良くなって、起きられるようになると、近所の同級生の女の子のうちにおもちゃ道具を抱え、学校帰りを狙って、出かけるくらい。おままごとの好きな男の子なんてものは、相手の女の子には迷惑だったかもしれませんね。
この時の私を見てくれていた医者は、北海道大学医学部を出たばっかりの先生で、出来立てホヤホヤだった。のちほど、高校生の頃に偶然この先生の診察を受けることになった。
「君が子供の時は大変だった、今なら抗生物質があるからね、治療は簡単だが、あの頃はやばかったよ。八歳だったか。これは助からない、大人になることはない、それで、目の前で死ぬのを見るのは嫌だったから、怖くなって、僕は病院に帰って、もうダメでした、という連絡が来るのを待ってたんだ。しかし、生き延びたんだ。よかったな!」
まぁ感動の対面だったけど、情けない先生だなと思った。
学校にはなじめず、一人で本を読むか、お絵描きぐらい。
体育の時間ともなると、先生は、私を指さし、ピンと横に振る。列をさっさと離れて、見学しろの合図だった。学校はつまらないし、私という存在もつまらない奴だった。
中学に入ってから、転機がきた。
自家製のスキーを近所の馬橇屋さんで、先端を曲げて、それらしい形にして、皮の尾錠のようなものを。鉄工場の職人さんに作ってもらって、徒歩で一時間はかかる小高い丘のスキー場へ出かける。けっこう滑れた。回転、ジャンプ、平気だった。この手製のスキーはすぐに壊れて。当時最新式のカンダハーというものに変わった。
スケートも、兄に買ってもらったスピードスケート靴で颯爽と滑った。スケートリンクが無かったので、高校生の時には自分達で校庭に水を撒いて作ったりした。
それからは、健康になった。風邪も滅多にひかなくなった、のはなぜだろうか。
雪国も住めば悪くないかもしれない。

春になると東京よりは少し遅い四月、学校の校庭の凍っていた根雪が、少し解け始めると、冷たい雪の上に水の流れができ始める、真っ白い川の上を透明な水がサラサラと流れていく。水蒸気が晴れた空に昇っていくのです。
春の小川?  ちょっと違うけど、まぁそんなものさ。
雪ノ下から、ようやく土が現れる。
こんな時の、新鮮な土の匂いっていいもんですよ。
なにしろ半年ぶりの土なんですから。

 
 

おとなはみんな子どもだった

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