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夕陽ふたつ

 山田幸伯

 

この八月で満六八になる。ちょうど四〇年前に死んだ父は五八だったから、親よりまる一〇年生き延びた勘定になる。

この歳になっても少年時代の夢をよく見る。ほとんどは中学、高校の頃の情景で、なぜかそれより幼い自分は出てこない。だが、眼の底に焼き付いている光景はいくつもある。どれも小学校の半ば頃までの思い出だ。

育ったのは鎌倉の外れ、江ノ島に臨む腰越(こしごえ)という漁師町である。

父は東京、母は横浜の共に町場の生まれで、都内で所帯を持ったが、二人目の息子である私が生まれると、間もなくこの田舎町に引っ越した。何でも、その赤ん坊が生後すぐに喘息を患い、医者が強く転地を勧めたのだという。世間では「もはや戦後ではない」と言われ始めた頃のことだ。

江ノ電が走る海岸通りから、山側に歩いて五分ほどのところに建つ小さな借家が我が家で、静かな晩には浜に打ち寄せる波の音が枕元まで届いた。家のすぐ近くに、鎌倉山を越えて北の大船へ向かうバス通りが伸びていたが、その周囲は一転、田畑の広がる農村の風景だった。現在では遍く宅地開発され、すっかり中級住宅街となってしまったが、当時は農家が点在する全き里山で、日が暮れれば「もし燈火(ともしび)の漏れ来ずばそれと分かじ野辺の里」(唱歌「冬景色」)といった風情だった。

都会育ちの父母は、こんな土地に我が子を解き放ち、どんな気持ちでそれを眺めていたのだろう。私には喘息であったという記憶もなければ、病弱であるという自覚もなかったから、ひとまず転地の効き目はあったと安堵したはずである。

海あり、山あり、川も田んぼも原っぱも、とにかく周りは遊び場だらけである。小学校に上がる前から、三つ上の兄や、近所の同年代の悪童(私は良童だった)たちと、団子のようになってくんずほぐれつ、野山を駆け、転げ回った。

チャンバラ、鬼ごっこ、缶蹴りはもちろん、草野球にドッジボール、それから破裂する2B弾を投げ合う野戦もやった。広場に落とし穴を掘って犠牲者を出したり、秘密基地を作ろうとして、そこらに置いてあった売り物の土管や石材をいくつも叩き割って大目玉を食らったこともある。

中でも愉しかったのは、生き物との格闘だった。蜻蛉、蝶、蝉はいくらでもいたし、沼や小川には、オタマジャクシ、ドジョウ、メダカ、ザリガニは当然のこと、今ではほとんど絶滅に近い水生昆虫――ゲンゴロウ、タガメ、タイコウチなども棲んでいた。彼らを一網打尽にして持って帰り、水を張った盥に放り込んで縁側で観察していたことがあった。

ある夏の午後、激しい雷雨のさなか、一匹の大きなヤゴが水面から這い上がり、盥の縁に挿してあった棒切れにつかまり、羽化を始めた。期待通り、それはギンヤンマの雄だった。だが、羽を乾かし、飛び立とうとした寸前だった、私が一瞬目を離した隙に、突如吹き込んできた突風と大粒の雨に打たれ、庭へと叩き落とされた。泥沼に近い地面に横たわった彼は、さらに雨粒の連打を浴び、それきり動かなくなった。

私は言いようのない哀しみに襲われた。

ギンヤンマは、幼い男児にとって、ある種の英雄、憧れの存在であったのだ。

おそらく同じ頃だったろう、忘れられない夏の夕景がある。

その日も僕らは、朝から虫捕りに奔走していた。身なりは一様にランニングに半ズボン、足にはゴム草履を突っ掛け、手には我々が「タマ」と呼んでいた小ぶりのタモ網を持っていた。これは本来魚用だが、当時、白いネットの付いた捕虫網を持っている者などいず、このタマ一本が僕らにとって「水陸両用」の武器だった。

陽が傾き始めた頃、その日の最後の猟場である山裾にある一枚の田んぼへと向かった。その一反(三〇米四方)ほどの水田の上を、黄昏時、ギンヤンマが群れ飛ぶのである。

ギンヤンマ――体長は七~八センチ。頭、背、胸は緑色で、その下の細長い腹(尻尾ではない)の部分は褐色。雄はその腹の付け根、胸との境目のところが鮮やかな青色だ。これがたまらなく美しい。

予想に違わず、水が張られた田んぼの上を、何匹もの雄が力強く滑空していた。稲はそれほど育っていなかったから、田植えからまだ間もない時期だったに違いない。いつもながら雌の姿は見かけない。雌が捕まれば、いわゆるトンボ釣りができるのだが、いなければどうにもならない。ごくたまに合体交尾しながら飛ぶ雌雄(我々は「つーるみ」と呼んだ)を見つけたが、極めて稀だった。

雄たちは田んぼの真ん中あたりを端から端まで直線的に飛んではそこで急旋回し、その往復を繰り返していた。縄張りを主張すると同時に、途中蚊などの虫を食べているようだ。

いつのまにか、我々以外の近隣の子供たちも大勢集まり、四方の畦道に一列に並んで田んぼを取り囲んでいた。誰も目的は一緒だが、皆固唾を呑んで眺めるばかりで、ひとりとしてヤンマに挑む者はいなかった。それには理由があった。

田んぼの角の脇に、一坪もあるかないかの小屋が建っており、その表にこんな張り紙があったのだ。

 

――一歩でも田んぼに入ったら、タマをとりあげる――

 

勿論、田んぼの主だろう。それがこの小屋の中で見張っているに違いない。

田んぼに踏み込めば、十中八九ヤンマは捕獲できる。だが、畦道にいる限り、彼らの飛行高度や経路から見て、柄の短い子供用のタマでは到底届かない。

夕陽が水面を照らし、あたりは茜色に染まり始めた。薄茶色のヤンマの羽も、光を浴びて微動しながら輝いていた。

何事もなくジリジリと時は流れた。夕闇が刻々と迫る。

やがて、もう襲われまいと思ったのかどうか、徐々に岸に近いコースを旋回するヤンマが現われた。すると、ひとりの年長の少年がタマを握り直し、身構えた。兄と同じくらいの年恰好だから小学校の五、六年か。辛抱しきれなくなったのだろう。

「あいつ、やる気だな」――傍目にもそれはわかった。

そして、一匹のヤンマがギリギリまで近づいた瞬間、彼は勢いよく田んぼのぬかるみに飛び込み、タマを振った。一同息を呑んだが、悲しいことに網の先端が羽に掠っただけで、ヤンマは逃げた。

その時である。大きな音とともに小屋の戸が開くと、中から日焼けした青年が現われた。彼はそのまま少年に歩み寄り、黙って右手を差し出した。うなだれていた少年は、そこでキッと顔を挙げ、やはり黙って右手のタマを男に手渡した。ほんの数秒の、無言、無音の儀式であった。

すでに日はとっぷりと暮れていた。家へ帰る道すがら、兄や仲間たちと何を喋ったかは憶えていない。ただ、このとき幼な心に刻まれたのは、後に覚えた言葉で言えば、あの名も知らぬ少年の「潔さ」だった。

もうひとつの忘れられない夕景、その舞台は江ノ島の海だ。

浜から島へと渡る弁天橋は、私が物心ついた頃はまだ木造で、それがやがてコンクリートになり(暫く通行料を取っていた)、さらに隣に自動車専用の道路橋が出来たのが、一回目の東京オリンピックの年、昭和三九(一九六四)年だった。

島を正面に見て、向かって右側を西浦、左側を東浦と呼んでいたが、その東浦が五輪で大変貌を遂げた。一帯は埋め立てられ、島の面積は二倍に拡がり、そこにはヨット競技のためのハーバー(湘南港)が造営された。

以前から西浦は格好の磯釣り場で、私も家族や友人たちと足繁く通ったが、東浦は磯が少なく絶壁続きで、上級者しか訪れなかった。それが築港のおかげで、岸壁から安全に竿を出せる「海釣り施設」に生まれ変わったのだ。当然、釣り人は押し掛けた。ところが、いっこうに釣果が上がらない。風評では「魚たちはセメント臭を嫌って寄り付かないのだ」とのことだった。

「魚が戻ってきた」という噂を聞いて、父とふたりで島へ渡ったのは、いつ頃だったろうか。五輪の翌年の春か、初夏か。だとすれば父は四〇、私は一〇歳になる直前である。

当時、父は釣り道楽の義兄に手ほどきを受けて、休日には海や川、さらにヘラブナの釣り堀にまで足を運んでいた。初めて釣りをした腰越の堤防で、いきなり黒鯛を二匹上げて以来、虜になっていた。

その日に持って行ったのは、義兄から譲り受けたばかりの、ちょっと値の張る木製の釣り竿だった。竹一本の延べ竿ではない、短い竿を順に繋ぐ継ぎ竿である。長さは二間(けん)ほど。今の海釣りでは、そんな竿は完全に姿を消した。

我々は堤防に囲まれた港内の隅に陣取った。周囲にはすでに七、八人の釣客がいた。海が開けた前方は東の方角で、遥かに鎌倉、逗子、葉山の海岸、その右手には三浦半島の低い山並みが見渡せた。五輪を終えた港内には、その頃、レジャーボートなど数少なく、加山雄三が何代目かの「光進丸」を係留していたのは、もっと後年のことである。

勇躍ハーバーへ乗り込んで来たものの、その日、何度餌を付け替え、深度を調節しても、水面に直立した浮きはピクリともしなかった。噂はウソだったのか。たまに引っかかってくるのは、どこでも釣れる嫌われ者のフグの類いの小物ばかりで、私は早々に飽きてしまった。

やがて背中を照らす夕陽が傾いてゆき、周囲は薄暮、釣りの現場で言う「夕まずめ」の頃合いを過ぎた。そろそろ道具を仕舞わないと手元が暗くなる。

父は最後の一投を振るった。そして、じっと待つ。もう浮きはほとんど見えない。

その時、竿先が音もなく大きく撓った。慌てて父はアワせる。獲物は見事に掛かった。

そこから格闘が始まった。

周りの釣り人たちも寄り集まってきた。「これはデカイぞ」「ボラじゃねえな」……。

「ミチイト何号だ?」の声に「3号」と答える父。

「それなら平気だ。緩めるな」「もっと立てろ」「そうだ、竿を立てるんだ」周囲から次々に声がかかる。薄暗い中、父の必死の形相がわかった。

そのまま五分、いや一〇分だったかもしれない。

父の両手がふと緩み、竿がほんのわずか前へと傾いた瞬間だった。小さな音とともに、竿の先端の二本――穂先の一本とそれに繋がった二本目が一気に本体から抜け、闇の中を海に向かって吸い込まれていったのだ。

その後の事はよく憶えていない。暮れなずむ弁天橋を渡りながら父はふと洩らした。

「怖かったんだ、あれ以上竿を立てたら、折れるんじゃないかと……」

今となれば、持ち慣れない高価な竿で未体験の大物に立ち向かった父に同情する。

蛇足ながら、取り逃がした獲物に想像を巡らせば、あの頃、腰越沖の遊漁船で釣れていた鱸(スズキ)あたりではなかろうか。一メートル級がよく揚がっていた。

あれから優に半世紀が過ぎた。

今住んでいるのは、鎌倉から西へ三〇キロほど行った二宮という、やはり海沿いのさらに鄙びた田舎町だ。ますます都から離れたが、ここが終の棲家になるだろう。西湘バイパスを見下ろす海岸段丘の上で、窓からは相模湾と大島が見える。小さな庭だが、四季折々、花は咲き、鳥も来れば、虫も鳴く(余談・コオロギを食べる奴の気が知れない)。結局、少年時代に舞い戻ったようなものだが、いよいよ爺臭くなっていくのだけが、ちょっぴり残念だ。

西行法師を気取って、花を見ながら死にたいと、庭の隅にソメイヨシノの苗を植えた。それからまる四年経つのに、今年の春も葉っぱばかりで一輪も咲かなかった。この開花を見届けるまで生きていたいというのが唯一の望みなのだから、もう完全に隠居老人である。

(令和五年五月)

1955年 横浜市生まれ
元・祥伝社 編集者 著書に「敵中の人 評伝・小島政二郎」、「チェット・アトキンス 私とギターの物語」

 
 

おとなはみんな子どもだった

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