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子どものころのオリンピック    齋藤俊夫

元・電通

私が初めてオリンピックに出会ったのは、メルボルンオリンピックの時で、その時小学校3年生であった。その前はヘルシンキであるが、五歳なのでほとんど覚えていない。メルボルン五輪ではラジオ放送があり、水泳の中継をよく憶えている。特に一五〇〇メートル自由形で山中選手とオーストラリアの選手が競り合っていたのが耳に残っている。山中選手は惜しくも銀メダルだった。二〇〇メートル平泳ぎで古川選手が金メダルを取ったが、二〇〇メートルはあっという間に終わってしまうので、印象に残ってない。この大会で日本は4個

金メダルを取った。古川選手の他に、体操鉄棒で小野選手、レスリングの笹原、

池田両選手である。水泳、体操、レスリングが日本のお家芸といわれるようになった。

次のローマオリンピックでは、テレビ放送で見ることができるようになった。

このように回を重ねる毎に、放送するメディアが進歩していく。さらに次の東京オリンピックでは、カラー放送が始まったわけである。

ローマオリンピックをテレビで見て、憶えているのは、体操の小野選手の活躍。男子団体で見事金メダル、小野選手個人も鉄棒で金メダル。メルボルンに続いて連覇。「鬼に金棒」をもじって「小野に鉄棒」と称賛された。小野選手は跳馬でも金メダル。3個の金メダル獲得の偉業を成し遂げた。この大会で日本選手の取った金メダルは4個。あとの一つは体操徒手の相原選手。全部体操で取ったわけである。テレビ放送で印象的だったのは、閉会式で電光掲示板に「ARRIVEDERCI A TOKYO(東京で会いましょう)」と表示されたことだ。いよいよ東京へオリンピックがやってくるという思いが湧いてきた。

そして4年後、東京オリンピックの年となった。ENGLISH AID という来日する外国人に道を教えたりする、ボランティアみたいなことができるようになるための養成講座があり、友人が応募していたので一緒について行った。講師はNHKのTV語学番組に出ていたハリー・クイニ―という人だった。1日ぽっきりの講座で、その後具体的に活動することなく、オリンピックムードを感じるだけで終わった。しかしそのことで、オリンピックを実際に観てみたいという思いが強くなった。

観るには入場券が必要。入場券の一斉発売の記事を新聞で見つけ買いに行こうと思いついた。しかし、その日は平日。当時通っていた学校は埼玉県の熊谷。チケット販売は、東京。行って帰ってくるのにかなりの時間を要する。まさか休むわけにもいかない。そこで思いついたのは、出席を取るのは、1時間目だけなので、2時間目までの休み時間に学校を抜け出し、最後の6時間目までに戻れば良い。中抜けというかキセルみたいなもの。しかし一人でやるのはどうもと思っていたところ、同級生に同行の士を見つけることができた。彼は何と射撃というマイナー種目を希望していた。季節はたしか7月だったと思う。そうすると制服はなしで、ワイシャツだけなので目立たない。

そして、決行当日一時間目終了後、うまく学校を抜け出した。正門からだと校舎から見えてしまうので、横の出口から脱出。熊谷駅から東京へ向かった。入場券の販売所は交通公社(今はJTB)やプレイガイドで種目別に何か所かに分かれていた。先ずは神田の交通公社で友人が射撃のチケットを入手。次に銀座の十字屋へ行く。(当時十字屋はプレイガイドをやっていた)買った種目はホッケーとサッカー。人気の陸上や水泳、バレーボールなどは当然売り切れていた。恐らく開店前の朝早く並ばねば買えなかったであろう。従ってそれは最初からあきらめていた。ただ、オリンピックを見られれば良いと思っていたので、競技種目のこだわりは無かった。ホッケーは見たことがなく、珍しさもあって選んだ。サッカーは、秩父宮、駒沢、大宮、横浜の4会場あったが、家にわりと近い大宮でのゲームにし、母親、兄貴の分も合わせ3枚購入した。こうして無事使命を果たし、午後には何食わぬ顔で学校に戻ることができた。

十月になり、十日の開会式を迎える。テレビ中継を見たが、どこで見たのか思い出せない。当日は土曜日だったので、家で見ることは可能だったはず。しかしカラーで見た憶えがある。日本選手団の赤のブレザーが鮮烈な記憶となっている。その頃家のテレビは白黒だった。開会式はファンファーレで始まり、続いて古関裕而作曲のオリンピックマーチに乗せて各国選手団の入場。最後に聖火の入場。坂井選手が場内を一周。聖火台への長い階段を駆け上る。階段脇に合唱団が陣取っており、その中に学校の音楽担当の先生が居て、いいところにいるなと思ったものだ。苦労して買ったチケットを持って、実際の競技を観に行ったのはその3~4日あと。学校ではオリンピックを観に行くのは欠席にしないとなったので、正々堂々と制服を着て出かけた。ホッケーの会場は駒沢だったので、渋谷から玉電に乗った。初めての経験だった。正面が卵形のまあるい電車でユニークだった。5年後に玉電は廃止になったので、良い思い出となった。試合の対戦は、ドイツとオランダだったと思う。オレンジのユニフォームが印象的だった。サッカーの試合は大宮であり、チェコとブラジルの対戦だった、チェコのユニフォームは白、ブラジルは今も変わらないカナリア色。勝敗は0対0で伯仲していたが、後半にチェコが一点ゴールして勝利した。

試合終了後、出口で待ち構えて何人もの選手からサインを貰った。サインは期間中、選手村や町中でも集めてサインブックとなったが、今はどこへ行ったか

見当たらない。オリンピック期間中、競技を見るだけでなく競技会場周辺や銀座の街、選手村などを回ったことがあった。各国の選手がそれぞれカラフルなお揃いのブレザーを着て、闊歩している姿を見て、これがオリンピックならではの風景なのだなと強く感じた。世界が東京に集まって来ていると。選手村は今の代々木公園。ゲートに待ち構えて、出入りする選手開催となったからサインを貰った。

他の日はテレビ中継を見ていた。学校にも体育館にテレビが置かれ、授業の合間に観ることができた。オリンピックの期間は一五日間であったが、まさにどっぷり浸かったわけである。振り返ると、若き頃のことで一番憶えているのはこの時のことである。世界を身近に感じることができ、その後の人生に少なからず良い影響を与えてくれたと思う。また、このオリンピックは日本の国と国民に大きな自信と活力を与えたと言って良いだろう。

少し蛇足になるが、今年のオリンピックは、やったという記録が残るだけで

人々の間に残るものの何と少ないことか。国の借金は沢山残った。本来は世界の人々が集まることがオリンピックの大義ではないかと思う。単に選手だけでなく。選手は来ただけで、日本の人々と触れ合うことなく帰って行った。開会直前まで、開催の是非論が飛び交ったが、結局無観客開催となった。人々は、画面を通してオリンピックを観るしかなかった。折角東京でやっているのに、誠に味気ないこととなった。最近とみに画面で済ませてしまうことが多い。画面を通じては伝わる情報の質量共に実際より少ないものになってしまう。東京オリンピックの一年延期が決まる前の昨年3月に、二年延期を提案した人がいた。組織委員会の理事で、私も知っている人だった。そうすれば、少しはましだったかもしれない。不可能なことではないはずだ。一年延期を決めたのは時の政権の意向が反映されていたのではないか。どうもスポーツに政治が介入してくるのは良い傾向ではない。とにかく今回のオリンピックは様々なことを浮き彫りにさせてくれた。そういうことでは意味があったのかもしれない。

こどものころのことがテーマなので、ちょっと脱線し始めたのでこの辺で。結局は「昔は良かった」ということなのか。少し寂しい気がする。

 
 

おとなはみんな子どもだった

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