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コロナ感染でよみがえるあの日あの頃   阿部剛

7月4日アメリカ独立記念日、バカでかい星条旗をグランドいっぱいに広げ、さあ、大谷翔平がアストロズ戦先発投手だあ。例によって奪三振ショーで浮かれていたが、エンジエルスのアホ打線が鳴かず飛ばず。結局ボロ負け。毎度のことながらカリカリイライラ、ああやんぬるかな。頭にきて熱まで出て来たぞ、体調まで変になっちまった、そうこうするうちにボヤッとしてきた。ありゃりゃこりゃほんとに変だぞ。おでこに当てた体温計の数字は38度6分。おっとととと、マジかよこれ。ここ数十年こんな発熱経験ない。当然、コロナを疑い、自宅常備の抗原検査キットで見るとマーカーは陰性。それでも下がらぬ熱にふらつきながら病院でPCR検査を受けると、これが見事に陽性であった。とんだコロナ記念日になってしまったのだ。当然同居する娘にも感染。幸い私の症状は解熱剤服用で平熱になり咳無し、倦怠無し、いわゆる無症状であったが、ハンディ背負う娘のような弱者に対してコロナは容赦しない。いわゆるコロナ症状のすべてを発症したようなもので、下がらぬ発熱、止まらぬ咳、食べない、飲まない、クスリも吐き出す。こちらほんものの、嗚呼やんぬるかな状態だった。結果10日間の自宅療養中、大谷ショータイムどころでなかったが、娘は、訪問在宅診療医師のおかげもあって、ウソのように回復復元したのだった。

ふりかえれば10日の間、咳き込む娘を寝かしつけ、こちらもいつになく疲れたのか、早くから寝ちまう日々が続いた。夜半に病変で目を覚ますことがなかったが、その代わり早朝に目覚める娘を看病するためには、早寝しなければ身体が持たぬと我が免疫軍団が判断したのであろう。

普段はあまりないことだが、夢うつつ状態でよく記憶の感光板に浮かび上がって来たのが子どもの頃のあの日の事である。

山口県防府市向島。ここに伯母の家があった。時代は戦後復興で日本中が湧きたっていた昭和二六、七年の頃である。戦地から復員した伯父は、カルスト台地の山口県の石に眼をつけ石材業で一旗揚げ、羽振りがよかった。島から石を切り出し、自ら所有する石船で瀬戸内から阪神へ運搬する、そんな伯父伯母の家は、向島の海にほど近いところにあった。夏。伯母が、こざっぱりとした和服に日傘をさして防府駅ホームに笑みを浮かべながら私たち兄弟を迎えに立っていた。

夏休みと言えば、端から終いまでこの伯母の家で過ごすのが、就学前から小学高学年までの習いであった。貧乏の子だくさんの我が家にとって、経済的にも好都合とおやじおふくろが判断したわけである。幸い伯母夫婦には子がなく、我々を非常に可愛がったのである。次男は養子にと言われ、おふくろが頑強に断ったとかは後で知った。三男の私はといえば、もう伯父が防府のキャバレーにまでも連れて歩き、「坊やチョコレートパフェよ、エビフライよ」なんて取り巻くきれいな姉ちゃんに言われて、普段見たことも食べたこともないような夢幻の世界に陶然。この甘美さは今でも忘れない。さらに向島の家の広い畳、縁側、蚊帳をつっての夜、何もかもが珍しく、驚くことばかりであった。昼は蝉の声のけたたましさに、カブトムシが飛ぶもんだなんて、、、。地面が熱くて裸足で歩けぬ。ことほどに典型的な都会の子であったのだ。

そんな軟弱都会のすかし野郎に一泡吹かせてやろうと、地元の悪ガキは思うわけである。その日は遠からずやって来た。日中は泳ぐ。島にある河口が格好の泳ぎ場で、地元の子供らが歓声をあげている、そこへ熱い砂地をぴょんぴょんはねながらやって来たのが私である。小学一二年だったか。泳ぎはおろか海のしょっぱさも知らない。飛んで火に入る夏の虫じゃ。こちとら、瀬戸内の穏やかな海に幼い浪漫心が、

君知るや南の国、はあ。なんて思ったか思わなかったか、、、。あっという間もなく

我が身体は水の中。小学生にはとても背が届かない深さである。悪ガキどもがよってたかって海に引きずり込んだのである。苦しいじゃないか、アップアップしようにも水面は遥か上にある。ここの記憶が肝心なのである。その時、時間が止まったように静まり返った瞬間が訪れたのだ。見上げると海面が鏡面のごとくにキラキラ映り青い空が透けて見える。ふうう。

一刻あってまわりが騒がしくざばざばと人の手が私を引っ張り上げていた。熱い岩場に寝かされてしこたま水を吐いて見上げると、青空が頭上に広がっていた。

以来、私は海が好きになった。あの海中から見上げたキラキラが焼き付いた日から。

泳ぎも潜りも達者になったことを思えば悪ガキに感謝してもいいくらいだ。

後年、伊豆の式根島で沖にでて寄せる波に岩礁に取り付けなくなった時、渦に巻かれて、あの時と同じ海面を見た。途端に、いったん沖に戻り取り付ける場所を見つければいいのだと、気づき浜に戻れたことがあった。

あの日の記憶が、妙に懐かしくもあり、なんだか力がよみがえったような気にもなる。コロナのおかげとはいいがたいが、呼び覚ますものがあることは確かだった。

 
 

おとなはみんな子どもだった

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