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アキラの豪速球

 

藍野裕之

 

わたしは東京・池袋に生まれた。西口をしばらく歩いて立教大学の近くの四畳半のアパートに住んでいたらしい。千葉の九十九里から東京に出てきた親父は、池袋で鳶になった。「三越の工事を請け負ってなぁ」といっていたのをうっすら覚えている。仕事のことよりよく聞かされたのは長嶋茂雄の話だ。六大学野球リーグでの活躍で池袋はたいへんなにぎわいだったそうだ。

池袋の記憶はまったくない。2歳になると埼玉県浦和市(当時)の南端に引っ越した。わたしが覚えているのは、そこからである。伯父も足立区かどこかの工場にいたらしい。やがて親父たち兄弟はスチールサッシ製造会社を浦和市に立ち上げた。それで引っ越すことになったのだ。

我が家には風呂がなかった。大家に掛け合って親父が風呂場をつくった。サッシ屋の若い職人やら女房持ちやらが毎晩のように入りに来た。刺青のある男もいた。赤や青は入っていなかった。外郭だけでやめてしまってあった。風呂上がりは宴会だ。忙しかっただろうが、お袋はいつも楽しそうだった。

職人の中にひとり、親父たち兄弟の親戚筋で九十九里から来た高校を出たばかりの若い男がいた。大人たちは「アキラ」と呼んでいた。わたしは彼になついた。もっとも古い記憶は工場の慰安旅行についていったときのものだ。箱根の強羅温泉だった。大きな風呂にアキラとふたりで入った。「泳げ」といわれた。ばしゃばしゃやったことだけは覚えている。

彼は長身だった。ほかの職人たちと並ぶと頭ひとつ出るほどだった。目は切長で目尻が上がっていた。昼休みや夕飯前にわたしを見つけると抱き上げられ、やがて肩車され、あとはぐちゃぐちゃといじられた。体はいつも鉄屑臭かった。

小学校に上がる直前だったと思う。あるとき、グローブを放り投げてきた。つけ方も教わったのだろうか。自分もつけて軟球を下投げで放った。以来、顔を合わせるとわたしはキャッチボールをせがんだ。いっしょに九十九里の海に行ったこともある。砂浜でのアキラはどこでも顔がきいた。砂浜で寛いでいるときだった。突然、彼は立ち上がるいなや走った。そして、監視の櫓の下から空気の入ったタイヤチューブをひとつとり、走って海へ飛び込み、溺れている女の子を助けた。わたしは立ち尽くして見ているだけだった。

あれはセリ摘みの記憶もあるから春だったのだろう。たぶん小学2年生だった。アキラは暇そうだった。わたしはすでにキャッチャーミットを持っていた。かなり自信もつけていた。アキラを誘った。「思い切り投げて」「いいのか?」。彼はニヤニヤしていた。やがて振りかぶって投げてきた。わたしは捕った。早かった。それからほどなくして、アキラはわたしの前から突然いなくなった。九十九里に帰ったとだけ親父に聞いた。

いまもアキラの豪速球の感触を思い出す。それは、たいてい鉄屑の臭いが呼び水だ。アキラだけではなく親父やお袋の顔まで現われることもある。なぜか、みんな笑っている。

1962年東京都生まれ。法政大学文学部卒業後、広告会社勤務を経てフリーで編集、執筆をする。現在、京都市在住。

 
 

おとなはみんな子どもだった

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