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そこ退けそこのけ問題児が通る

橋口正

 現在、人口22万を数える大阪府寝屋川市だが、私が小学一年の昭和35年当時は5万人ばかりで、文化の香り乏しき片田舎だった。

 自宅から小学校までは2キロ近くあったが、駅近くの集落を出ると、学校までは水田が広がるばかり。その集落の中ほどに、金属製で高さ10メートルほどの火の見櫓が立てられていた。梯子に足が届くようになったので登ってみた。頂からの眺めは素晴らしかった。自宅や近くを走る京阪電車。遥か彼方の学校も見える。私はこの眺めを「みんなに見せてやろう」と、近所の子供たちを集め、最初の段に足を乗っけてやり、みんなで上った。

 一人だと気付かれなかったが、四人ばかりの子供が昇れば、目に付く。直ぐに近所の数人が集まり、下りてくるよう命じられた。安全に全員を降ろしたにもかかわらず、こっ酷く叱られてしまった。

 通っていたのは司馬遼太郎「坂の上の雲」に登場する秋本好古が最初に赴任した市立南小学校。そこで三年の担任だった教諭から「学校始まって爾来一番の問題児だ」と烙印を押されてしまった。昔は三年生で、やっと掛け算の九九。みんな一生懸命。ところがこの問題児は、2の段こそ全て唱えられるものの、9の段に到っては「九九八十一」だけ。斜めにばっさり切取って覚えるという小狡いやり方。当然、許されるわけはない。

 小狡さは入学時から大いに発揮していた。入学直後の知能指数のテストは問題の後半が「迷路」で、これを出口から入口に向かって線を引くものだから速い速い。問題が足りなく無くなり、採点不能となって大騒ぎ。

 どうも他人と違う行動が好きだったようだ。一年生の冬休み明けの始業式。校長が「病気をした生徒はいるかな」と全校生徒に問う。静まり返る講堂に集められた児童最前列の問題児が「はい」と大きく手を挙げた。「天才事件」もあり、校長は私の名と顔を憶えていて「橋口君どんな病気をしたのかな」と。これ対し、講堂内の誰もが聴こえる大声で「二日酔いになりました」。どっと講堂内に爆笑の渦が巻き上がった。嘘偽りではない。近所で勧められるままに相当量を呑み、丸二日、寝床に沈んでいたのだ。

 何事においても恥ずかしいという気持ちはなかった。小五で「トレパン」の購入が求められた。しかし運動能力だけで優劣が決められる体育の授業が大嫌いで、「見学」ばかりだった私は「不要だ」と判断。母も同意してくれた。学校としては、夏に予定される林間学校での着用も想定していたようだった。そこでトレパンの代わりに父の「パッチ」で参加した。驚きの表情で皆から見られたが、羞恥の念はなく、能天気に燥いでいた。

「奇行」も派手で、今思えば、ちょっと穴があれば入りたくなるようなものも。

 五年生の時にカラヤンの来日公演をNHKで見て嵌ってしまった。近くの大学講師の家に上がり込み、先ず楽聖の運命を「暗譜」できるまでに聴き込んだ。そして全四楽章を声で再現しながら、鉛筆を振り振り、指揮のお稽古をしながら登校したのだ。傍から見れば「狂っている」としか思えなかっただろう。

 教えてもらえそうな先達もないので、教員用の指導書を借り、指揮法を独学するなど切磋琢磨。さらに総譜弾きが指揮者としての最低条件のようだったので、一日3時間ほどピアノと格闘。これをピアニストでも目指そうとしているのだと母は勘違い「もっと幼い時に指と指の間、切って置いてもらえばよかったね」と手の小さな息子に恐ろしい事を。

 中学に入ると吹奏楽部があり、直ぐに「指揮者志望」で入部。しかし下級生が棒を振ることを、先輩らは赦してくれなかった。

ところが顧問の教師が病を得て入院。急遽、私が顧問の代わりに指揮を執ることに。

 中二の文化祭は学校ではなく市民会館の大ホールでの演奏となり、当時流行りのGSメロディをアレンジ。会場は大いに盛り上がり大成功。母も聴きに来ていて、感動のあまり涙が止まらなかったと。

 親父の財布頼みで東京の私立大学に行くことを高1で決め、好きだった国語英語社会だけに特化。しかし、高2の秋、元気だった父が急逝。すべてが御破算になってしまった。「何とかしよう」と家出して東京で作家を目指すが、直ぐに頓挫。二十歳を待って親族の反対を押し切り海外に出たものの、結局、尻尾を巻いて帰ることに。

 学歴は高卒だったが、毎日新聞社の入社試験は「学歴不問」。ギリギリ25歳で受けてみたらなんと合格。周りから勝手気ままな息子を「甘やかせすぎたからだ」と責められてきた母だったが、吃驚するほど喜んでくれた。

高卒なのに大卒扱い。まだ異端なものでも、多少なりとも許容してもらえる社会だったのかも知れない。いや、なりより形振り構わず突き進む息子を信頼し、護り続けた母の、辛抱強さの賜物だったのだろう。

プロフィール*二十歳で日本脱出、二年余り世界を放浪。毎日新聞入社。写真部副部長、船橋支局長など。

 
 

おとなはみんな子どもだった

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