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“4月2日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1641=寛永18年  徳川幕府により平戸オランダ商館の長崎移転が命じられた。

秀吉が出したキリシタン禁制は徳川幕府にも引き継がれ、長崎に来て約60年も市中に自由に住んでいたポルトガル人を新たに作られた出島に集約した。キリスト教を弾圧するための措置であり、これ以上混血児を増やさないという側面もあったという。<自由恋愛>の末の混血キリシタン続々誕生ですか。これは知らなかった。

しかも出島のポルトガル商館は幕府公認とはいえ高い賃料が課され3年後にはポルトガル船の来航禁止で完全に撤退させられた。ひょっとしたら賃料を巡るいざこざがあったのか。そうなると「いやなら出て行ってくれ」などと体良く追い払われたのでしょう。ポルトガル側が<また来る日まで>と思ったか<捲土重来>と思ったかはわからないけど。

「空き家」になった出島には貿易と宗教を分離したオランダがやってきた、というよりジャカルタ(当時はバタヴィア)に本部があった「オランダ東インド会社」が出てきたわけです。こうしてここが鎖国日本の唯一の窓口になりました。

ところで<鎖国>の2字は、1801=享和元年に当時の阿蘭陀通詞・志築忠雄の訳書『鎖国論』が最初だからずっと後の話。まあ、ここで雑学をひけらかす気はないので、つまりそういうこと。

*1744年  世界初のゴルフのオープン競技がスコットランドのリースで開催された。

参加料5シリングを払えばだれでも参加できたというから古き良き時代。当時はいま主流のストローク方式ではなく2人ずつのマッチプレー方式だったそうで。場所もスコットランドだから大会名も英語のGolfではなくスコットランド語のGowfのほうだった。

それと「初期のゴルフはコースという概念はなくモグラの穴をホール代わりにした」などというけどこのときはどうだったのか。そんなにうまいことモグラの穴も開いてなかったとは思が。こっちのほうもどうでもいい<疑問>である。

*1956=昭和31年  彫刻家・高村光太郎が東京・中野のアトリエで肺結核のため死去した。

本職は彫刻家・画家だろうが『道程』や『智恵子抄』などの詩集が教科書にも載っているから「職業・詩人」と思っている人が結構多いかも。他に評論や随筆、短歌もあり実に多彩な人だったことは確かだ。最愛の妻・智恵子を1938=昭和13年に失った光太郎は、傷心のなかで3年後『智恵子抄』を出版した。

1945年4月の空襲で東京のアトリエが焼け、多くの彫刻やデッサンを失った。それで東京を去る決意を固め、宮沢賢治と生前に交遊があった縁から5月に岩手県花巻市にある賢治の実家に転がり込むが、ここも空襲で被災して命だけかろうじて助かった。間もなく敗戦、花巻郊外、山口村の林の中に賢治が『雨ニモ負ケズ』の中で「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋」と書いたのと同じ粗末な小屋を建てて7年間にわたりわび住まいを続ける。

ふたたび上京したのは1952=昭和27年10月。病気に苦しみながらも青森・十和田湖畔の「乙女の像」の完成直後、知人に「まったく人間の生涯というものは苦しみの連続だ」と語った。

74歳で亡くなった命日を「連翹忌」という。生前、レンギョウの花を愛したことにちなみ告別式の棺の上にその一枝が置かれたことからとされる。彫刻家の父・高村光雲、妻・智恵子とともに駒込の染井霊園に眠る。

*1926=大正15年  朝日新聞が「八方から出る大西郷の写真、ハイカラ姿で現る」と報道した。

<写真嫌いだった>という西郷隆盛のものといわれるただ一枚の写真が前月、樺太(サハリン)で見つかったという記事に寄せられた読者からの情報を大きく掲載した。淀橋町12、堀江忠男氏、中渋谷641、志村富貴子氏が東京、神戸市平野楠木谷町183、梶山周裕氏、信州安曇県穂高村、降旗素月氏の4人で堀江氏以外は同じ写真であると。共通しているのは「上野の銅像とは似ても似つかぬもので、唯濃い太い眉と鋭い眼だけが似ている。顔もあのでっぷりな所がなく、頭髪は真ん中からハイカラに分けている」とヒゲを生やし洋装姿の写真2枚を紹介している。

どうやら樺太の写真なる物は西郷家や生前の西郷に面会したことがある東郷(平八郎)、川村(景明)両元帥は「ニセモノ」と断じたようで記者の再度の照会に東郷は「西郷さんの写真はないと聞き及んでいる」。川村は「これは別人(西南戦争で戦死した長山彌太郎)に酷似している。犬を連れたのは見たことがないが上野の銅像はよくおもかげを写している」とうんざりの否定コメントを残しているから所詮はよくある<から騒ぎ>ネタだったか。

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