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いつも戦っていた

亀井雅彦

そういわれてみれば、私も子供だった。それはその筈だが、あまり記憶がない。前世?の事も胎内のこともまったく記憶にないのはまぁ良いとしても、あまり子供の頃の記憶が残っていない。あってもかなり断片的であって、まとまっていない。あるいは、本当にその時の記憶なのか、後からの思い込なのかが、定かではない。
昔々、水にプカプカと浮いていた覚えがあった。この話を小学生の時に亡くなった母にすると「お前が1歳の時に伊勢湾台風で家が水に浸かり、盥に乗せて浮かせておいたら流れていきそうになって焦った」と聞かされた、と記憶している。恐らくそんなことはなくて、逆に盥の話を聞いて、なにやらそんなこともあったように記憶に残ったのだと思われる。いい加減なものだ。他の人の記憶もいい加減な物だろうか? 人様の記憶の具合を確認できるという意味で、この「みんな子供だった」企画は面白いが、記憶喪失の私が面白いものを書く自信は無いが、少しお付き合いをお願いしたい。
物心というものが何時付いたのか? これも判然としない。私は三重県四日市の出であるが、元々東京にいた祖父祖母が、四日市に移り住んできたらしい。祖父祖母と同居で初孫だったこともあり、随分と可愛がられたようだ。祖父は元軍人で結構偉かったという。祖父の話は覚えている。四日市への大空襲を受けて焼け出されたときに、父が「父ちゃん(祖父)の刀(軍刀)が燃える!」といって、燃える家の中から刀を取ってきた、という話を祖父がしてくれた。父は何も言わない人で、自分ではそんなことは決して語らない。また二人とも私が、戦後の「神道、天皇、日本軍、全否定」の洗脳を受けているのを知っているから、そこまでしか言わない。今となっては、なにか大事な物が、物ではなく精神性が、自分で途切れてしまった感がある。父は家が浄土宗であること、それなりに信仰していたことも、まったく教えなかった。祖父の葬儀で、あぁそうなのか、と認識したのが初めてであった。母は、私をハイカラに育てたかったのだろう。幼稚園はキリスト教系だったと記憶している。キリスト様は田舎ではハイカラで、しゃれているように思えたのであろうか。勿論、父も母も仏教は浄土宗である。またピアノをやらされた。これもハイカラの一貫だったろうが、途中でぶん投げた。母としては、自分の夢を乗せて随分と厳しく躾ても悉く裏目に出てしまう、なんと可愛くない子供かと嘆いたことであろう。
そんな母が祖父母との同居を嫌ったのかもしれないが、何度か引っ越しをした。その度に小学校を転校した。これも自分ではほとんど覚えていないが、後ほど父に「友達ができない環境にしてしまった」と謝られたことから「あ、そういうことか。」と記憶に残った。そうはいっても無邪気なもので、近所の餓鬼どもとゴムボールで野球をしてはしゃぎ回っていた記憶が断片的にある。空地はいくらでもあった。彼らとの付き合いは、途切れている。
各種の身体的困難とは、闘いつづけていた。今からは信じられないが、体が弱かった。父からは、「首から上で、悪くないのは耳だけ」と嫌味を言われたのを覚えている。確かに、文句を言いたくなるほど金は掛かっていたと思う。眼は悪く、小学校に入る前から眼鏡。あの頃の視力検査はひらがなを読ませていたように思うが、検査員から「この子はひらがなが読めない」と言われて、母は怒り狂っていた。それほどド近眼で、眼鏡は分厚く、高価であった。鼻は蓄膿で手術。これは長い戦いで手ごわかった。何度も手術というほどではないが、切った。今でもあんな病気はあるのだろうか? 寡聞である。歯はガタガタで矯正。母は先の事を考えて拘って矯正させたがっていたが、これは私としてはその時点では特に支障がないので、ピアノのように途中で投げ捨てた。首から上で最も肝心なオツムの具合も、幼少の時は祖父母のチヤホヤの一貫で、天才かと言われていたのが小学校に入ると急落。蓄膿のせいで集中力に欠ける?とか言われていたけれども、鼻が通らないものはしょうがない。風邪でもよく寝込んだ。厄介な子供だったろうと思う。
自分らしい記憶が残ったのは、父の転勤で兵庫県西宮市に移った時であろうか。小学校3年の時と思う。住まい変われば学校も変わるので、誰も知らない所に行かねばならない。そこで言葉が通じなかったのには驚いた。これまでの転校は市内だったから、言葉は変わらなかった。三重は関西風ではあるが優しい言葉で、どぎつい本場の関西弁(西宮が本場かどうかは微妙である)とはあきらかに違う。大人になると手加減して、相手を見て標準語で話したりするが、子供は容赦無い。私からすると同級生が何を言っているのかわからない。同級生からすれば、この転校生は変な言葉を喋り「ようわからへん」ので、絶好の虐めが生まれる環境であった。しかし私はそれを察し、迅速に関西弁を習得し、元来の強気とおちょけ?な性格を活かして、サッと虐める側に廻った。小学校時代の後半は、なにやら色々な戦いを始めた時期であった。これまでは体の弱さとは戦っていたが、新しく色々な物と戦いだしたような気がする。
最初の相手が、言葉が通じない転校生への虐め危機であった。それから自分を守るためか、私は暴れ者の虐めっこになっていった。もう一つが、漫画である。少年マガジンとサンデーは既に発行され書店で平積みされて、確か一冊50円で売られていた。私はこれ等を買い込んで、テレビ放映されている漫画を読み漁った。巨人の星、あしたのジョー、おそ松くん、等々何でもあり。「こんなものこおて(買って)!もう小遣いはやらへん(あげない)!」とよく祖母に怒られた。その抜け道は、先ほどの病気との戦いの余禄である病院の待合室であった。病院の待合室には、長い待ち時間を誤魔化すために、各種漫画が豊富に置いてあった。私は診察が終わった後も、読みふけっていた。看護婦達が訝し気に見ている。病院に行った私が戻ってこないので、母親が耳鼻咽喉科に来て、読みふけっている私をこっぴどくとっちめながら連れ帰っていく。少年ジャンプが発売されたのも、拍車をかけた。当時は、主流のマガジンとサンデーに対抗して、乱暴な漫画、特にH系が多く、当時としては攻撃的であったように思う。今の漫画のレベルとは比べ物にならないが、当時は父母から見たら許されざる暴挙であったろう。これらと戦って?いたのだ。
さらに母とは戦わねばならなかった。西宮では私立の有名中学へのお受験が、広く認知されていたのだ。灘、甲陽、六甲といわれる御三家を目指して、優秀な小学生が受験戦争を繰り広げる。母は、私がお受験に参戦することを望んだ。父は沈黙。私はまんざらではなかったけれども、勝負に打って出る気はしなかった。恐らく安くない私立の金銭的な問題もあり、有耶無耶にしつつ、公立中学に進学した。近くにある仁川の上流の甲山(カブトヤマ)にちなんで、甲東小学校から甲陵中学へ進級した。
進級する頃には、徐々に戦う相手が変わりつつあった。漫画から、時代小説へと移っていく。きっかけは大河ドラマの「竜馬が行く」であった。父が晩酌をしながら見ているのを、並んでみていた。これは凄い、と思った。こうなりたい、とも思った。翌年の「天と地と」にも興奮した。その翌年の「樅木は残った」はチト難解に過ぎた。そのころから、テレビではなく本を求めるようになっていた。阪急仁川駅は川向うの宝塚が繁華街であり、私は川を渡ってそこの小さな書店と顔見知りになって、中学生ながらにツケで本を買えるようになった。おおらかな世の中だったのでしょう。私はまずは司馬遼を、買いまくって、読みまくった。ただし、今思えば不思議な事だけれども、平家に始まって明治維新までの話に限定されていた。明治以降の日本軍と軍人が絡む話、例えば「坂の上の雲」は読んでいない。次いで海音寺潮五郎、さらには吉川英治、とまるで大河に釣られるように著者を広げて買いまくって、読みまくった。何時の頃か、父がどこかの出版社の企画物に騙されたのであろうか、名前は定かではないが日本文学全集、といった風に銘打ったものを買ってきた。その中に山岡荘八、山本周五郎等のお歴々が入っており、これも読みまくった。それも不思議と平家に始まって明治維新以前のものに限定されていた。今思えばこれらはいずれも、あくまで日本国内での英雄伝説という物語であったように思える。あるべき経済的な視点、例えば信長の経済力、国際的な視点、例えば竜馬とイギリスの関係、宗教的な視点、秀吉とポルトガル、スペインの関係、といった重要な視点での洞察は私には届いておらず、私自身の洞察が深まることがなかったのが、かえすがえす残念である。
かくして、随分と偏った自称「日本史通」の中学生となり「愛国者」となって、教員の多くが日教組であることを看破し、罵ったのであった。そう、教員とも戦ったように思う。
幸いにして、父は盥回しで次は名古屋に転勤し、私も名古屋の城山中学校に転校する。そこでも同じ洗礼を受けた。名古屋弁は、まったく別世界。「おみゃーのいうこと、わっかーせん(判らない)」のである。ただし、もう一度同じこと、すなわち無用の戦いは繰り返さなかった。処世というほどではないが、学習していたのであろう。とはいえ、名古屋弁の習得も迅速であった。
ここまで来ると、背は母親を越えている。母親も、何やら子供に掛ける夢と期待は、既に現実に世界に引き戻されている。あれほど口やかましかく抑え込もうとしていたのが、諦観とともに落ち着いて、自分の趣味の世界に入っている。私ももう子供とは言えなくなってきたのだろう。一昔前なら元服している。柔道を始めた。高校受験も近い。
高校受験はラッキーもあって成功したが、父が再び盥回しにあい、埼玉に転勤する。私が名古屋で高校生の時であったので、母と私を名古屋に置いて単身赴任で行ってしまった。私が大学受験に失敗して一浪すると、もう知らんとばかりに母は私を見捨てて、父の元へ行ってしまう。私は某有名予備校の寮で一人暮らしを始め、ここから長い独り暮らしが始まることになる。以降は既に子供だった時の話ではない。
東京の大学を出て就職した私は、父と同じく、いや父よりもさらに酷く、インターナショナルに盥回しをされることになる。まずは仙台、ここでは東北弁。ついでスイス、ここではフランス語。ついでアメリカ、ここでは英語。どれもかなり理解困難な言葉であったが、不思議と全てを怪しげに、そしてそれなりに操って、現地の人間といざこざを起こしながらも、それなりに過ごして来ているのは、子供の時の経験のお陰であろうか?
神田日本橋界隈で、一時期ツケで呑みまくっていたのも、子供の時の技の一貫であろうか?
今になって、改めて日本の歴史を縄文から現代まで、世界という横串と経済と視点を通して考え直してみたい、物語にしてみたいと妄想しているのは、子供の頃からのなせる業であろうか?
子供だったのは確かだが、もしかしたらまだ子供なのかもしれない。

 
 

おとなはみんな子どもだった

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