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書斎の漂着本(85) 蚤野久蔵 二笑亭綺譚(1)

精神病理学者として名高い式場隆三郎(1898-1965)は戦前、東京の下町にあった怪建築「二笑亭」を著書『二笑亭綺譚』などで広く紹介したことでも知られる。建物が取り壊されてから半世紀、『二笑亭綺譚-50年目の再訪記』(求龍堂、平成元年=1989)は新たに加わった藤森照信(建築家)、赤瀬川原平(美術家・作家)ら4人が異彩を放っていたであろう「二笑亭」にあらゆる角度からアプローチすることで誌上に蘇らせた。

『二笑亭綺譚―50年目の再訪記』(求龍堂刊)

式場隆三郎著『二笑亭綺譚―50年目の再訪記』(求龍堂刊)

写真中央が「二笑亭」で東京市深川区(現・江東区)の繁華街、門前仲町にあった。現在の地下鉄、東京メトロ東西線と都営大江戸線が交差する「門前仲町駅」を上ってすぐの永代通り北側に面して建ち、当時は表を市電が通っていた。拡大写真に写る入口の扉は引き違いの頑丈な格子戸。二階部分は明かりとりのため、三枚のガラスが<嵌めごろし>になっている。

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「二笑亭」を建てたのは深川一帯の地主だった渡辺金蔵(1877-1942)という人物である。ところが金蔵が精神を病んでいたことや存命中であったので式場が昭和12年(1937)の『中央公論』11・12月号に発表し、2年後に昭森社から単行本化された『二笑亭綺譚』などには仮名の赤城城吉としている。『二笑亭綺譚-50年後の再訪記』では原著の再録部分が仮名、再訪記が実名となっているが、ややこしいのと金蔵の四男も父の思い出を語っているので実名に統一させていただく。

金蔵は旧姓を佐山といい九州で生まれた。父の手一つで育てられ、上京して東京・麹町の小学校へ入学した。成績はきわめて優秀で、卒業後は足袋仕立業の老舗であった渡辺家へ奉公した。働きぶりもまじめだったので渡辺家の養女だった妻と結ばれて婿入りする。4男1女をもうけたが足袋には見切りをつけ33歳で洋品雑貨商を始めたがうまく行かず、44歳で廃業に追い込まれた。それでも渡辺家は土地持ちでもあったので地主として生活できた。所有する土地の管理や地代の収受にも誤りはなかったが無口で変わりものの地主だった。しかも職人から始めたのでそうなると退屈で仕方ない。長唄、清元、謡曲、舞踊、生花、茶の湯だけでなく美術的な趣味では硯や篆刻の収集に励んだ。書も巧みだったから和歌や漢詩の揮毫などひとり自分の趣味に没頭した。

そんな生活が一変したのは大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災である。家族は無事だったが深川一帯を舐めつくした火災で住まいだけでなく家財のすべてを失った。トタン葺のバラックは建てたものの震災後の区画整理に直面して精神の変調を一層明瞭にする事件が起こって家人を驚かせる。突如として「家族を連れて世界一周の旅に出る」と言い出したのである。驚いた家人はあらゆる手段を使って制止しようとしたが頑として応じない。自ら外務省へ行き自分と長男、次男の旅券を申請し、欧州航路の船会社に船室を予約してしまう。小心者の長男が仕方なく旅程の作成や準備を重ね、大正14年(1925)10月に横浜港を出港した。ところが神戸に向う船中で心労を重ねた長男が不安、不眠などで錯乱状態になり神戸で下船してしまう。それでも金蔵は次男と旅行を継続することを選んだ。旅行はスエズ運河から地中海に入り、フランスのマルセイユ、イギリスのロンドンに寄港、大西洋を経てアメリカに渡り、カナダから太平洋を越え、翌15年(1926)4月に帰国した。

旅行のエピソードを少しだけ紹介しておこう。まず特記しなければならないのがその服装であろう。当時、和服に下駄で洋行する人は珍しくなかったが金蔵も洋服を着なかった。自ら縫ったシャツと股引(ももひき)を身につけた。これが「常用服」で何か改まる必要のあるときはどてらの上に袴をつけた。頭髪は短く刈り、シャツ一枚の異様な服装は船中では注目の的になった。金蔵はボーイにチップを100円も与え、贅沢な買い物をするので乗客は「奇人の富豪」と信じていた。ちなみに東京近郊の住宅地である板橋の一軒家の家賃が月に10円ほどだったから100円の価値がお分かりいただけるだろうか。=参考:『値段の明治大正昭和風俗史』(週刊朝日編、朝日新聞社、1981)=金蔵はそんな服装のままで一流ホテルに宿泊し、大劇場の特等席で演劇などを観賞した。

このシャツ股引旅行について、金蔵は後日こう弁解している。
「あれは自分の教養を示したものです。和服は洋服に比べると地が薄く破れやすいでしょう。破れたら縫わねばなりません。私は針ができます。だから自分の教養を人に知らせるためにも洋服は着られません」たしかに足袋職人だったから手先は器用だったのだろうが分かったような分からない説明である。世界漫遊の旅そのものが「大いなる奇行」ではあったが長男も脳病院に入院していたし、本人たちも無事帰って来たから家族は一安心した。

この頃、金蔵は同じ物品を多数買い集める習癖があった。大小数十個の鰹節削りの木箱を作ったり、多数の天秤を買い集めたり、岡持ちを同時に30個も作って近所に配った。天秤は両端に荷物をぶら下げて担ぐいわゆる天秤棒で、岡持ちは食堂やラーメン屋さんなどが出前に使う。それにしても食堂や料理屋さんならともかく貰った方も困惑したのではあるまいか。他にも地代の集金などがうまくできなくなる事態があちこちの物件で度重なり、復興局が進める区画整理にも一切協力しない態度を取り続けた。復興局も懇談を重ねて何とか妥協点を見つけようと八方手を尽くしたが、まったく相手にしなかった。やむなく強制処分の命令が下り、家屋が取り壊されることになった。家人は金蔵がどんなに激昂するかと案じたが、いよいよ当日となると金蔵は平然と現場へ行き呑気そうに見物していたという。

世界漫遊の旅から帰った金蔵は、震災後のバラック住宅を本建築に改造することにした。出発前にあるいは頭の中に大体の計画ができていたのだろうか。それに欧米で見て来た知識を加味したのかもしれない。昭和2年(1927)、いよいよ「二笑亭」の建築に取りかかる。 (以下続く)

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