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池内 紀の旅みやげ(22) カフェ工場跡──奈良県奈良市中

奈良・東大寺の戒壇院は、平安時代の名作四天王像で知られている。大仏殿の西方、民家と接するところにあって、小づくりのお堂が石段の上でひっそりと孤影を投げかけている。

たいていの人は来た道を引っ返すが、お堂の左にまわって裏手へ抜ける道もあり、古びた土塀と丸石を埋めた坂道に風情がある。下りきったところの右手は、いつもひとけのない大仏池、奥山への道路をはさんで黒い木造の建物と細い赤っぽい煙突。

「オヤ、何だろう?」

足をとめたくなるのは、辺りに何やら懐かしい雰囲気があるからだ。昔といっても平安、鎌倉といった大昔ではない。半世紀ばかり前の町々でよく見かけたが、家内工業をひとまわり大きくしたぐあいで、創業者が新製品のために思いをこめて工場をつくった。いわば、そんな感じ。

いつのころか新製品が「新」でなくなり、大手が大々的に売り出して、将来に見切りをつけた。奥の古風な洋館は事務所だったのではあるまいか。となりに蔵が見える。工場、事務所、蔵が一つのセットになって、ある時代に特有のスタイルを色濃くとどめている。

古びた門柱のわきにブロンズの街灯があって、工場の向かいは製品、資材置き場だったような建物である。誘われるようにして入っていくと、工場入り口の板塀に郵便受けのような小ひさしがとりつけてあった。

「ようこそ 工場跡へ」

コーヒーカップのマークと小石が三つ。たしか宮沢賢治の「注文の多い料理店」では、思いがけないところにレンガ造りのレストランがあって、玄関に「どなたもどうか お入りください」と金文字で書いてあった。

「カフェ工場跡」のなんともシャレた小さな看板がいいですね!

「カフェ工場跡」のなんともシャレた小さな看板がいいですね!

こちらは木の門が閉まっている。横手からのぞくと、工場跡の一角がカフェにしつらえてある。空気出しの小屋根と赤い煙突をもつ木造の建物には、おいしい珈琲が似合っている。それにしても板塀にとりつけたお誘いが、なんともおシャレではないか。

旧事務所は現在は住宅のようで、門に標札が見えた。同じ敷地の工場跡を取り壊さないで、そのまま保存したぐあいなのが奥ゆかしい。元製品・資材置き場とおぼしい建物をガラス戸ごしにのぞくと、土間と壁を改造して小さな陳列台がつくってある。そういえば軒にNativ Worksと手づくりの看板が下がっている。陳列台にはまっ白い衣類がたたまれたり、つるされたり。Nativ Worksが社名で、前の工場跡の喫茶室も会社の一部と思われる。週日の午後のことで、よく見ると引き戸のわきに「土・日開店」の断わりが張りつけてあった。ふつうは休む日に開いているようだ。

わけがわからいままに立ち去りかねていた。とにかく雰囲気がいい。坂の上の戒壇院は峻厳だが、こちらはなごやかで、すぐ足元を大仏池からの水が流れている。東大寺の広大な境界と接して小さな工場跡が存続している。それを大切にしている人たちがいるらしい。

「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落としてください」

宮沢賢治の料理店では「注文」がつぎつぎに出たが、こちらはそんな恐れはなさそうだ。およそ人の来そうもないところで、週末にかぎり店を開けるというシステムがたのしい。

戒壇院の裏手の坂道、正面に工場跡。

戒壇院の裏手の坂道、正面に工場跡。

そのとき奥の住人らしい若い人がやってきた。声をかけると不審そうに足をとめた。まわりが気に入り勝手に入りこんだことを釈明して、つぎに質問役にまわったところ、おおよそが判明した。工場は祖父にあたる人が乳酸菌の飲み物製造に建てたもので、廃業後は織物の芸術家に貸している。工場跡のカフェもその人のアイデアで、たしかに週末のみの開店。Nativ Worksの名のとおり、土地の古来の技術を生かした布地で衣類をつくっている──

門を出がけに振り返ると、午後の陽ざしが板塀の小びさしにかかり、黒い影と「ようこそ、工場跡へ」が謎めいた記号のように見える、前方には戒壇院をつつむ古木の杜で、昼なお暗い。

「いや、わざわざご苦労です

たいへん結構にできました」

「注文の多い料理店」では、かぎ穴からじっと二つの青い目玉がこちらをのぞいていた。何やら気配を感じて見返したが、かぎ穴などなく、板塀が明るい陽ざしのなかで、やわらかい色模様を見せていた。

【今回のアクセス‥近鉄奈良駅から徒歩約二〇分 大仏池の西側】

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