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“1月18日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1657=明暦3年  江戸城の天守閣をはじめ江戸の町の大半を焼いた「明暦の大火」が起きた。

前年11月から80日間もまったく雨が降らず江戸の町は乾き切っていた。午後2時ごろ、本郷円山町の本妙寺から出た火はおりからの北西の強風にあおられて湯島からお茶の水、神田、京橋方面を焼き尽くした。当時は江戸城の防衛のため隅田川には千住大橋しか橋がなかったので対岸に逃げようとした人々が次々に川に飛び込んで溺死した。その後、対岸にも飛び火して燃え広がり、東京湾沿いにあった霊巌寺が炎上した。境内に避難していた人々は焼死、または海に飛び込んで水死するなどで死者は1万人に上った。

浅草方面では小伝馬町牢獄から囚人が一時的に「切り放ち」で解き放たれた。これを<脱獄した>とした流言に惑わされた役人が浅草寺の門を閉めたため、詰めかけた人々が圧死したりして2万3千人もが死んだ。さらに翌19日午前10時ごろには再び小石川伝通院前の新鷹匠町の与力詰所から出火、北風にあおられて飯田橋から九段方面に広がった猛火で江戸城天守閣や多聞櫓、富士見櫓が延焼した。城内には大砲や鉄砲などの火薬が大量に貯蔵されていたのが次々に誘爆して火の回りを早めた。また、午後4時ごろ、麹町の人家から出た火が南東方面へ延焼し新橋の海岸までの一帯を焼いた。

3か所から出た火は3日間燃え続け死者10万人に上る江戸時代最大の火事となった。徳川家康入府から半世紀以上も発展を続けてきた江戸は5百余町が焼け江戸城をはじめ多数の武家屋敷や民家が失われた。江戸・東京を通じては関東大震災、東京大空襲と並ぶ<3大火災被害>とされ、本妙寺での<振り袖供養>の火が燃え移ったという俗説から別名「振袖火事」と呼ばれる。有力檀家の老中・阿部忠秋の屋敷からの出火だったため<体面の悪さ>を隠して寺が火元ということにしたという「火元引き受け説」や、区画整理が進まないことに業を煮やした幕府筋が仕組んだという「放火説」などもある。

この大火のあと幕府は本格的な防災対策に乗り出す。隅田川に両国橋、新大橋、永代橋、吾妻橋の4橋を架け、御三家を川向うに移転させ、防火のための「火除地」や道路を拡張した「広小路」を作った。現在も上野広小路に地名が残る。死者の霊を弔うために創建されたのが本所・回向院である。

*1902=明治35年  警視総監が「宮内省御用達」の濫用を厳しく禁止する告諭=通達を出した。

「日本新聞」は「近来帝室御用、東宮御用、宮内省御用其の他皇室に関する文字を商品、商品の容器、封被、引札、看板等に濫用する者往々有之、右は従来禁制せられたる儀に附、心得違無之様篤く注意すべし」と報じている。封被は包装紙、引札は宣伝チラシである。

江戸時代までは「禁裏御用」として京都・大阪の商人を中心に宮中に物品を納めてきた。ところが明治維新で東京遷都が行われると「脱亜入欧」の掛け声のもと、西洋の技術をいち早く導入した商売が創業、輸入商品を扱う<新顔>も登場した。たとえば生活の洋風化に合わせるカバンやネクタイ、洋服、銀製品、七宝などである。西洋料理が宮中の食卓にのぼると葡萄酒も出されるようになったのも取引先が増えた背景にある。

その後1935=昭和10年、宮内省は制度の大幅な改正を行い、許可は満5年以内で再審査などと厳しくしたが1654=昭和29年に商業の機会均等のためとして制度そのものを廃止した。イギリスには「王室御用達」がいまでも制度として運用されているがわが国で良く目にする「宮内庁御用達」はいわば<慣習としての残っているに過ぎない>のだという。

*1911=明治44年  大逆事件の被告・幸徳秋水ら24人に死刑判決が出された。

旧刑法が天皇、皇后、皇太子らを狙って危害を加えようとした事件に適用されたもので別名「幸徳事件」と呼ばれる。前年5月、信州(長野県)で発覚した爆弾事件で逮捕した社会主義者の宮下太吉らによる明治天皇暗殺計画に関与したとして社会主義者やアナキストら数百人が次々に逮捕された。検察は宮下をはじめ社会主義者・幸徳秋水、菅野すがら26人を起訴していた。

この日の大審院の状況を朝日新聞は「大審院内の警戒は厳重を極め、警官190名、憲兵56名、各要所に配置し、正門外は両側に巡査、そのまた玄関ドアの小影にも巡査という具合にて、警官と憲兵とにほとんど鼻を突くばかりだ」と厳重な警備ぶりを紹介する。正午過ぎ、8台の護送馬車が裏門を入る。馬車は2回にわたって26名の被告を運んだ。傍聴者は11時から入廷していた。午後1時、満廷がかたずをのむうちに被告たちが入廷、4列になって着席する。間もなく正面扉から鶴裁判長以下各判事が着席して開廷した。

2時間の判決文朗読のあと裁判長が立ち上がり一気に判決を告げた。「主文。幸徳伝次郎(秋水)、菅野すが・・・以上24名を死刑に処す」。実に26人のうち24人が死刑だったから、あまりのことに廷内はあ然として声もなかった。ようやく菅野が立ち上がり「私たち4人の計画がこんなに大勢の人たちを」と涙にむせび、ややあって「どんなに人を偽ることができても、天を偽ることはできないと思います」と結んだ。

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