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“9月3日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1189=文治5年  4代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡した。

平泉一帯は28万の大軍を率いた源頼朝に囲まれていた。4代・泰衡は迎え討つことなく居館の平泉館に火を放って北走するが、この日、家臣に裏切られて殺された。

歴史評価は<結果>を知っているだけに時に残酷である。清衡・基衡・秀衡・泰衡と続いたうち誰が優れていたのかとあげつらってやまない。「平泉の世紀」を創った初代は荘厳、二代は豪快、三代は王者と形容される。王者は頼朝を強く意識しながらも弟の義経をかくまった。四代は<別格>だったから栄華を終わらせたのだと。

そうだろうか。義経の平泉行きを知った頼朝は三代が没したことをチャンスに四代に義経追討を宣下=命令する。やむなく四代は義経を攻めて自害に追い込む。これが閏4月30日。それでも頼朝は平泉征伐を決め、7月末には白河関を越えて北上する。最後が8月21日の津久毛橋の戦いで平泉の組織的戦闘は終わった。いまの宮城県栗原郡だから本拠の平泉からははるか南方である。そこからは小競り合いもなく1日で頼朝の軍勢は平泉に入った。四代が北に向かったのは翌日である。甚雨、つまり大雨だったという。

3日後の早朝、頼朝の陣に一通の書状が投げ込まれた。それには大略こう書かれていた。「義経のことで責められているが、助けたのは父で私はまったく知らないこと。父の死後、あなたの命令で義経を殺したのに手柄として恩賞にあずかるどころか罪もないのに征討にあっている。奥羽両国の支配は任せるから御家人に加えるか、それができないなら死罪だけは許して遠流にでもしてほしい」とあった。「罪なくして征討あり」という<無邪気さ>にさすがの家臣も愛想が尽きたのだろう。首級は平泉に運ばれ、大路にさらされたがその下で捕虜として尋問された由利八郎という雄将は態度も堂々、弁明も理路整然としていたから居並ぶ鎌倉武士も「平泉に人あり」と粛然として襟を正したと伝える。従者が本来なら主がやるべきことを果たしたというところに「北の王者」の歴史が有終の美を為し得なかった悲劇がある。

こうは考えられないか。所詮、二代以降は二代清衡、三代清衡で四代はそうなれなかった。聖書にある「わたしははじめであり、おわりである」ではないが政治だけでなく文化においても清衡は中尊寺を造った。基衡は第二中尊寺の毛越寺、秀衛は第三中尊寺の無量光院を造ったが泰衡は何も造らないうちに終わった。「みちのくという名のエビスの国」の名誉も、平泉に政治があり文化があり理想があって持続した。「ここ以外でも」と命乞いした将にもう名誉はないと絶望した家臣に幕を引かれたのだと。

頼朝に届けられた書状を書いたのは別人説もある。それはともかくとして泰衡が向かったのはいまの秋田県大館市にあたる出羽・肥内の贄柵(にえのさく)を任せていた河田次郎の館だった。ところが河田は変心する。部下に命じて泰衡を殺させると首級をみずから頼朝に持参して恩賞にあずかろうとした。これを頼朝は「一旦功あるに似たりといえども恩を忘れ、主人の首を梟(きゅう=さら)す。その科(罪)は八虐を招く」と主人を討った不義を咎めて斬罪に処した。頼朝の父・義朝も同じような状況で部下の長田忠致に平家の恩賞目当てに殺されていたから許せなかったとされる。

1950=昭和25年の学術調査で国宝・金色堂の須弥壇内から三体のミイラと首級が発見された。ミイラの人物特定は慎重に検討されたが泰衡の頭蓋骨には磔にするための鉄釘の孔が眉間から後頭部に貫通しており、学術調査団はまっさきに泰衡のものと断定した。しかもそれを納めた首桶の中からは百個あまりの蓮の種子が見つかった。託された蓮博士の大賀一郎にはできなかったが、弟子の長島時子(恵泉女学園短大名誉教授)が発芽させることに成功した。さらに生育場所の周辺の樹木の伐採で日照時間などを工夫することで2000=平成12年に開花に成功した。蓮は「中尊寺蓮」と命名されて大きなニュースになった。種子の発見から50年目、泰衡没後881年目にしてようやく“花が開いた”のである。

*1950=昭和25年  ジェーン台風が四国から近畿地方を襲い甚大な被害を与えた。

午前10時過ぎに徳島県・日和佐付近に上陸した台風は淡路島の東側から正午前に神戸市垂水区付近に再上陸した。最低気圧940ヘクトパスカル、最大瞬間風速50mの猛烈な「風台風」で神戸海洋気象台では風力計が壊れて一時欠測となった。

大阪湾は満潮と台風による「吹き寄せ」が重なって高潮になり、大阪市の港、大正、此花区など西半分は濁流が洗い一面の泥海になった。

「逃げ場を失った人々と一緒に多くの家が流され、叩き潰された家の屋根を覆っていたトタンや家々の瓦がペラペラの昆布のように空を舞っていた。大阪港では貨物船など何隻もが岸壁に乗り上げ、淀川大橋の鉄柱は全部が同じ方向にアメのように折れ曲がって路上に倒れている」とドキュメント記事が伝えている。

被害は死者・行方不明539名、負傷者2万6千人、住宅全壊1万9千棟、床上浸水9万3千棟を越えた。敗戦から5年目、どうにかこうにか復興のめどがつきかけた矢先の商都はたちまち奈落に突き落とされた人々はまた一から這い上がらねばならなかった。

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