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新・気まぐれ読書日記 (23) 石山文也 若冲

「何かの文学賞を取るかどうかでその作品の評価が決まるわけではないじゃないか!」とのお叱りを承知で、今回は<惜しくも直木賞を逃した>と書き始めることにしたい。江戸中期の京都を中心に活躍した奇才の画家・伊藤若冲(じゃくちゅう)を描いた澤田瞳子の『若冲』(文藝春秋)である。

『若冲』(澤田瞳子・文藝春秋)

『若冲』(澤田瞳子・文藝春秋)

澤田は時代小説のアンソロジー編纂などを経て5年前に『孤鷹の天』(徳間書店、2010)で小説家デビューした。新田次郎文学賞を受賞した『満つる月の如し 仏師・定朝』(同、2012)や小説、エッセイも多いから、いつまでも「母は作家の・・・」と言われたくはないだろうが、実は私、5月連休明けに偶然、母である澤田ふじ子の人気時代小説シリーズ・公事宿事件書留帳の最新刊『冤罪凶状』(幻冬舎)の書評を書いたところだった。『陸奥(みちのく)甲冑記』以来のファンなので、娘の作品が直木賞の候補作に選ばれた、しかも自分が選んだ本が候補作になったというのがうれしかった。他の候補作を読んだわけでもないのに珍しく発表を心待ちにしていたことを告白しておく。表紙は若冲筆の「紫陽花双鷄図」(米・プライスコレクション)である。せっかくなのでいつもとは違い<帯を外して>ご覧いただく。

あらためて美術史における若冲のプロフィールを紹介しておく。いまから約200年前、正徳6年(1716)京都で三代続く高倉錦小路の青物問屋、枡源の長男として生まれた。場所は京都の人たちだけでなく観光客でにぎわう現在の錦市場の西端、大丸京都店の北東辺りにあたる。青物問屋は農家から仕入れた野菜や果物を仲買人に卸す商社のような役割で比較的裕福な商家だった。数え23歳で父親が亡くなり家督を相続したが40歳で次弟にすべてを譲ると、隠居して85歳で没するまで画業に専念した。

親交のあった京都・相国寺の大典和尚との縁から金閣で知られる鹿苑寺大書院の障壁画50面を制作、相国寺には「釈迦三尊図」と「動植綵絵(どうしょくさいえ)」(現・宮内庁蔵)を納めた。とくに「動植綵絵」は明治の廃仏毀釈で寺が荒れ果てようとしたときにその下賜金で寺領が救われたことで知られる。他にも「こんぴらさん」の愛称がある金刀比羅宮(香川)の襖絵や、晩年、門前に住みついた京都・伏見の石峰寺に寄進した五百羅漢像などがあるが、妻帯していたのかなどの資料は見つかっていない。

同時代の京都には池大雅、円山応挙、与謝蕪村、谷文晁らが活躍していた。若冲は商売が嫌いだったとか人付き合いが不得意な<絵画オタク>だったと評されていたが、彼らとは付き合いがあったのか、本当に商売には無関心だったのか。若冲は近年、人気が急上昇するとともにそのプロフィール自体も大きく書き直されつつあることで知られる。

いささか前置きが長くなってしまったが、澤田は大胆にその<謎>に肉薄する。構成は本格的に絵に取り組むようになった若冲40代から死の前後までの8つのシーンである。表紙の「紫陽花双鷄図」を描く場面が登場する冒頭の「鳴鶴」ではその容貌を
「ぽってりとした一重瞼に細い目、薄い唇。何となく間尺の伸びた顔が、ひょろ長い身体の上に乗っかっている」
「この春で四十歳になったはずだが、絵だけに打ち込む暮らしのせいであろうか。年の読めぬその顔はつるりとして、浮世離れした仙人すら思わせる」。
さらに暮らしぶりは
「着るものは夏冬通して、簡素な紬(つむぎ)。生臭物(なまぐさもの)や酒を好まず、好物といえば素麺(そうめん)ひといろ。これが錦高倉市場の青物問屋枡源の主とは、いったい誰が信じるだろう」と。

8年前、近江国・醒ヶ井の豪農から嫁いできた妻のお三輪が子に恵まれず、それを厳しく責める姑や家業になじめず、庭の奥の土蔵で首をくくって自死したことで、何もしてやれなかった自身への悔恨もあってさらに絵に没頭したとする。それを厳しく非難するのが亡き妻の弟・弁蔵で、若冲からのあらゆる援助を拒んで終生憎しみを持ち続けるのが全編を貫く伏線となっていく。

相国寺に寄進した「釈迦三尊図」と「動植綵絵」は別の意図が込められていたとする。毎年公開されるこれらの展観にはその後、絵師をしていると聞く弁蔵も覗いているかもしれない。
「その御仁、若冲はんの絵を見に来はりますかいな」
「来ると思います。いや、来いへんはずがありまへん」

さらに若冲73歳の天明8年(1788)、京都御所や二条城本丸、東本願寺、相国寺をはじめ京都の町の大半を焼きつくした天明の京都大火では自身の居宅やアトリエを失ってしまう。行方不明の弟子を探して焼け跡を巡るうち、若冲は偶然音信不通だった弁蔵と再会する。弁蔵は絵師・市川君圭となっていたがこの大火で子は助けたが、妻と生き別れになった。若冲を憎み続け、若冲の贋作を手がけることで向き合ってきた、いわば若冲の<陰>の存在だったが若冲はその赤ん坊を預かる。その子は同じく絵師になるのか、老いてますます取りつかれたように大作、しかも「世に二つとない絵」を描き続けた若冲の最後は・・・。

章が進むごとに手持ちの図録やグラフ雑誌を引っぱり出して作品を追い、あとで片付けるのに一苦労したほどだ。それはともかく、実在の人物と澤田が創作した人物が京の都を舞台に交錯し、若冲像にまた新たな光が投げかけられたといえる。もちろん虚実取り混ぜたフィクションであることはわかっていてもその筆力にすっかり感動した。読み進めていくたびに抱いていた疑問の一端がゆるゆるとほどけていく気分にすっかり酔わされてしまった。まさに澤田流の<若冲ワールド>いやもっと広がって<宇宙>であるか。
「若冲はん、あんたほんまにこんなお人どしたんか?」というのが率直な感想ではある。
ではまた

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