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“6月27日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1898年  ヨット単独世界一周を成し遂げたジョシュア・スローカムがニューポートに帰港した。

この年号をよく見てほしい。19世紀である。日本は明治31年、初の政党内閣となる第一次大隈内閣成立の年だ。だからヨットといっても2本マストのスループ型帆船で全長は37フィート=11メートル、エンジンはなく天測儀以外の近代的装備は積んでいなかった。つまり本人の知識と勘と風まかせ、なにごともシンプル・イズ・ベストではあるけれど。

スローカムはカナダ・ノヴァスコシア生まれ、12歳で漁船に乗り、18歳で2等航海士となった。その後は船長として南洋航路やメキシコ、北太平洋など幾多の航海を経験した<元船乗り>である。当時54歳で若くはなかったが廃船寸前のオンボロヨットを自分で修理改造した「スプレー号」で世界一周に挑戦した。ニューポートの北100キロにあるボストンを出港したのは3年前の4月24日だった。とはいっても出港の時には誰も見送らなかったし「挑戦するぞ」とか「よーし、いっちょうやってやろうじゃないか」みたいな気負いもなく航海日誌も「午前中の風が順風だったので正午に抜錨した」とそっけない。なんだか風が良かったから出ていくかという気になったのよ、的な感じで順風だったから、帆いっぱいに風をはらませていたのは確かだが本人自身が「希望に胸をふくらませていた」のかまではわからない。

一路、大西洋を南へ。突風が吹きまくる南米最南端のマゼラン海峡でも連日、艇を安定させるために100メートルものアンカーロープを何度となく揚げ下ろししてもへこたれない。陸地からはフェゴ人に攻撃され、思わぬ烈風に吹き戻されたらまたもう一度初めからマゼラン海峡に挑む。そこでも悲壮感より楽天的なユーモアがあふれていて苦難をも楽しんでいるようでもある。太平洋に入ると今度は北へ。途中のファン・フェルナンデス諸島では『ロビンソン・クルーソー』のモデルとされるスコットランド水夫、アレキサンダー・セルカークが暮らした島(いまのロビンソン・クルーソー島)の記念碑を訪ねたりしている。サモア、フィジーからオーストラリアでは東海岸を行ったり来たり。アラフラ海を抜け、ココス島からマダガスカルの南をかすめて喜望峰を回った。

サモアでは王族に招待され、頼まれれば各地で講演をしているから行く先々の港で歓待を受けたようだ。だから孤独な航海どころかさまざまなハプニングがこれでもかというほど出てくる。遠征航海に出かけるヨットマンらが「航海に持って行きたい本」に挙げるのもわかる気がする。

とりあえず<初めてのヨットによる世界一周>を成し遂げたところで終わろうと思ったけど、スローカムはこの7年後に同じ「スプレー号」で大西洋を南へと旅立って行方不明になる。でもどこか気にいったところに住みついてしまっただけかもしれないけど。

*1652=慶安5年  江戸市中の風呂屋に遊女の定員を定めるお触れが出た。

「跡々(まえまえから)お定めのとおり、風呂屋の遊女三人より他抱え申すまじく云々」どういうことかというと江戸の銭湯は客寄せに湯女を置いた。一軒で多いところは数十人も抱えていて、夜になると酒食を提供し、湯女は遊女に変身する。吉原などより手頃だったので大いに繁盛したが、風紀が乱れるのを放ってはおけないとして三人までとした。
しかし「置いてはならぬ」ではなく「三人までなら」というのは、将来は段階的解消を目指すのかと思ったらこれがずっと幕末まで<緩めたり厳しくしたり>でだらだら続いた。

このあたりの<大江戸下半身事情>は我々現代人には理解できないところが多いですなあ。

*1950=昭和25年  警視庁はこの日正午から『チャタレイ夫人の恋人』の押収を開始した。

イギリスの作家D・H・ロレンスの作品を伊藤整が翻訳、小山書店から4月に発売した。当初は一部の読書人の間で話題になっただけだったのにわいせつ論争が湧きおこって連日のように報道されたことで増刷を重ね、2か月で15万部のベストセラーに。都内の書店では入荷する尻から売り切れが続出した。

刑法第175条のわいせつ物頒布罪で争われた2年越しの裁判では、第一審の東京地裁は小山書店社長に罰金25万円、伊藤は無罪。第二審の東京高裁は両者に罰金(小山25万円、伊藤10万円)、最高裁では「わいせつの三要素」を示して上告棄却となった。各新聞はこの問題を大きく報道したから世間の耳目を集めることになったわけだが、被告弁護人・正木弁護士の「今日まで全世界にワイセツ文書によって亡びた国はありませんが、基本的人権、殊に言論・出版に政府が干渉することによって亡びた国は枚挙にいとまもない」などという第一審東京地裁の冒頭陳述に「文化人気どり」の諸君は喝采を送ったものです。

戦いすんで。伊藤整は一躍<時の人>になり、その後出したこの裁判闘争の記録『裁判』も版を重ねたし『女性に関する十二章』がベストセラーに。罰金刑はいわば<天下御免の向う傷>として社会的地位にも影響はなかった。しかし、小山書店のほうは銀行が手を引いたことで倒産し、出版界からは退場した。

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