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“7月1日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1958=昭和33年  湯川秀樹博士の粒子力学の新説が世界的な学会で注目を集めた。

スイスのジュネーブで開かれた「高エネルギー核物理学会議」で湯川博士は粒子力学の新説を発表した。ジュネーブ発の外電は「博士は素粒子には量子化された部分だけではなく量子化されない部分がある。これからはこの量子化されない部分をさらに研究することが非常に大事だと締めくくり研究者から大きな拍手を受けた」と紹介した。記事は2段ほどの地味な扱いだった。湯川博士は戦後間もなくの1949=昭和24年に日本人初のノーベル物理学賞を受賞、コロンビア大学教授を経て京都大学に創設された基礎物理学研究所の初代所長に就任した。多忙ななかでさらに研究を重ねていたわけでこの日の発表を多くの研究者が注目していた。

何を言いたいのかというと最近、話題になっている「ヒッグス粒子」のマスコミ報道で科学部の専門記者諸氏がああでもないこうでもないと苦闘して紹介する記事。正直、記事を読んでもさっぱりわからないが、この日、湯川博士が強調したという<量子化されない部分>の研究が、大型加速器の導入などによってさらに進んだということだろう。

そもそもジュネーブでの湯川博士の発表は専門分野の研究者に向けてのものだったのだから単に言葉の上だけで強調したのではなく具体的な点をあげて詳しく説明したはずだから感銘を与えた。それをいくら噛み砕いたところで所詮限界があるから「その言わんとするところ」がちゃんと押さえてあるこの記事は<それはそれ>でよかったということ。

*1281=弘安4年  5月から西日本各地で続いていた「弘安の役」は予想外の結末を迎えた。

フビライの命によって900隻の艦船に総兵力約5万が来襲、日本軍の抵抗で攻めあぐねているうちに<神風>で大半の艦船を失った「文永の役」から7年後の再来襲だった。朝鮮半島を中心とする高麗の東路軍と中国大陸の元の江南軍が前回を上回る計15万、1,500隻でまず対馬、壱岐が襲撃された。別動隊の一部は長門(山口県)や志賀島(福岡県)も強襲したが主力部隊は博多湾からの“正面突破”では攻めあぐねていた。海岸沿いには延々と「石塁」が築かれ日本軍はこの内側から猛烈に矢を射かけたりした。

いったん壱岐まで撤退したが夜陰に紛れての小舟によるゲリラ戦に悩まされ、後続部隊と合流するため待機していた鷹島(長崎県)沖でまたまた<神風>が襲来して兵船の大半が沈没して全面撤退に追い込まれた。損害状況を『東国通鑑』は「日本に遠征して帰還しなかった者は、元軍10万余、高麗軍7千余」と伝える。

最近、九州大学工学部の真鍋大覚准教授が興味深い研究を発表した。中国南部の泉州湾海底から引き揚げられた同時代の軍船(全長35m、総トン数374トン)をモデルにシュミレーションした。この大きさの軍船を沈没させる風速は54.57m(瞬間最大風速)、平均38.59m、中心気圧938ヘクトパスカル、毎秒25mの暴風圏を持つ<大型台風>であると。同じ勢力規模としてはあの「洞爺丸台風」(1954=昭和29年)が匹敵する。そう聞くと2度にわたって元寇の大軍を撃退した<神風>もなにやら身近に感じますな。

*1939=昭和14年  満蒙国境のホロンバイル草原を血に染めた「ノモンハン事件」が始まった。

関東軍の第23師団を中心にした<精鋭>の戦車連隊はハルハ河に仮橋を架けソ連軍陣地に向けしゃにむに突入していった。何しろ見渡す限りの草原である。緒戦はソ連軍の戦車を対戦車砲や火炎瓶で攻撃して100両を破壊した。このまま楽勝かと思われたが相手は訓練された機械化兵団だったからこの程度で戦局が動くはずもない。別の丘陵からそれ以上の戦車が突然現れると白兵戦程度しか経験のなかった部隊は大混乱になるといった局地戦での惨敗が重なる。関東軍は続いて戦車連隊を導入したがたちまち劣勢となった。

2カ月の戦闘で連隊長は軍旗を焼いて自決、歩兵連隊長も玉砕するなどかってない大敗北を喫した。日本軍は戦死8,400、負傷8,800にのぼったが第23師団は1万5千人の1万人以上が死傷した。軍部は威信低下を避けるために国民にはノモンハンでの敗北は隠蔽、軍内部の評価分析も「参加将兵の無能と臆病に加え政府の非協力」と矮小化した。

ちょうどその1年後、戦争への国民動員をはかるため全国の隣組が毎月1回の「一斉常会」を開くことになった。旗振りの内務省はNHKのラジオ放送を通じて国民を<指導>した。隣組は5~10軒を単位に構成され、生活必需物資の配給ルートも兼ねた。<連帯責任>は裏返せば<相互監視>の役割も果たした。明るさの乏しかった時代、毎日ラジオから流れるテーマソングの『隣組』は国民歌謡として大いにはやり、大人も子供も楽しげに歌った。

「とんとん とんからりと 隣組」と明るく歌うことで「回して頂だい 回覧板」(1番)から「あれこれ面倒 味噌醤油」(2番)と物資不足を融通しあったりして「こころはひとつ」(4番)に“まとめられ”ていった。
  

  とんとん とんからりと 隣組   何軒あろうと ひと所帯
  こころはひとつの 屋根の月   まとめられたり まとめたり

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