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松江城が遊び場だった

                      内藤伸之

 昔、女ありけり。病親の介護とて西の国出雲へ・・・。祖父・伸の世話をしに松江へ行くという母に、父は「東京を離れたくない。別れよう。」父・四郎は師匠の長女をもらい養子になっていたが、「芸術家にとって東京にいることが大事。展覧会や仲間との集まり、それに、、、、」それに対し、女学生になっても父親と入浴していたという弥生さんは、「伸さんの面倒もみたいし、あなたとも別れたくない」と押し切った。かくして、ぼくが五歳のとき、父母と三兄弟の五人で東京都中野区上高田一の二七三番地から島根県松江市北殿町一九四番地に、兄二人が先発し、ぼくと両親の三人が追いかけた。内藤三兄弟は、長男一彦(ひこちゃん)、次男好之(のきちゃん)、三男伸之(のぶちゃん)だ。なぜ三男に祖父の伸の字が付いているかというと、娘を取られた祖父が「伸」の字を渡そうとしなったからで「三人目ならしかたないな」ということらしい。好之=のきを解説すると、「弟さんの名前は?」と聞かれた一彦(当時四歳)が「よしのきのはっぱ」と答えたからだ。

 松江の家は、松江城の大手門の前にある大手前広場にほぼ面していた。家老屋敷の門番がいたあたりらしい。玄関を入ると左がじんちゃんサイド、右が弥生さんサイドと分かれていた。城の山を城山(じょうざん)といい、何重もの石垣が築かれていた。冬、雪が積もると石垣の上の松の枝から雪が落ち、堀が大きな音をたてた。夏には蛇が堀に落ち、首を立てて泳いできた。引っ越した頃は、堀は菱だらけで水面が半分見えなかった。菱の実を食べたり、忍者ごっこでまきびしにしたりした。やがて菱は駆除され、白鳥が泳ぐようになり、歌まで作られた。

 石垣の上の松には傷がついていたり、穴が開いていた。小学四年生のころに松脂に火をつけたことがあった。よく燃えたのであわてて水を探しに行ったが、さいわい上級生が砂をかけて消してくれた。戦時中は航空機用の燃料として松脂を集めたらしい。そういえばジープに乗ったGIにチョコレートではなくお金をもらったことがある。まだ戦後がところどころにあった。

 結核の父は、ぼくが小学二年生のときに亡くなった。肺が悪いのに煙草好きで、切れると夜でも兄に買いに行かせた。もっとも亡くなる前は療養所に入っていたのでさすがに吸えなかっただろう。当時六年生だった次兄ののきは、中学生になると友達と山へ行っては鳥を見つけて来た。まず、宮鳩(土鳩)はとり小屋だけじゃなく父が寝ていた六畳間にも進出してきた。不衛生なのに当時はだれも気にしなかった。あれは何だったんだろう。結核よりはましという恐ろしい考えが浮かんだ。チャンスがあったら兄に聞いてみよう。鳩のエサは小鳥用の実をやっていたが、実を蒔いて育てると何倍にもなることがわかった。丸い麻の実を蒔くと毎日ずんずん伸びた。忍者はこれを跳んで力をつけたという。さらに、のきは台風の後に鷺山に行き、巣から落ちたヒナを拾ってきた。さて、エサが大変だ。どうしても生餌が必要だ。のきはいきものがかりとしてぼくを指名した。条件は一日最低トノサマガエルを五匹、そのほかドジョウやミミズなど。その対価として、のきは「冒険王」などの別冊付録を毎日一冊用意する。当時は十大付録とかで別冊が十も付いていたりした。しかし、我が家では雑誌を買っていなかったので、友達からもらっていたのかも、、、、

1969年の東京オリンピックの前に「外国人はハトを食べます。食用バトを育てませんか?」という広告があった。食用などとんでもないと、広告の隅に載っていた伝書鳩を買うことにした。つがいの伝書鳩は木枠の箱に入って鉄道貨物で届いた。その毛並みの美しいこと、宮鳩とは大違い。説明書を読み、二週間ほどたってから宮鳩と一緒に放した。二十羽ほどの鳩が家の上空を三周し、その後、円を広げ飛んで行った。そのうち黒っぽい一羽がすぐに降りて来た。クロと名付けたその宮鳩は身体がゆがみ飛ぶ能力が低かった。しばらくしてハトの群れが帰って来たが、伝書鳩の一羽がいない。シロと名付けた明るいグレーの一羽は戻って来たのだが、、、。いなくなった一羽は東京に戻ったのかもしれないな、まあいいやとあきらめた。シロとクロは仲良くなった。飛び立ってもすぐ降りてくるクロを追うようにシロも早めに降りて来た。そんな二羽を我々は王子とシンデレラにたとえていた。ある日弥生さんが叫んだ「どうしましょう。シロが卵を産んだわ。」美人のシロがクロに惚れただなんて、オスとメスの間はよくわからないもんだ。

 中学生になると夜遊びが増えた。きっかけは試験勉強。ある日、N君から「内藤、今夜うちで勉強しようぜ」と言われて始まった夜なべだった。それから何か所も行ったが、

酒屋のM君の家で、左官業のI君、歯科医院のS君と勉強することが多かった。まず普通に勉強はするが、次にクイズ、あきたら休憩と称する脱線。冬は雪の降る中、他人家のリヤカーを持ち出してベンハーごっこで走り回ったり、夏は蛾が乱舞する大橋の街灯の下で大声で歌ったりした。

 宍道湖の北岸、有名な皆美館から西へ一キロほどに競輪場の跡地があった。そこが花火大会の打ち上げ場所になっていた。花火の翌日、早朝に行くと花火の殻や火縄のきれっぱし、時には未点火の花火も手に入った。ある夏、シュシュシュシュと連続で打ち上げられるスターマインを見つけた。それも点火されずに残っていたのだ。しめしめと持ち帰ったその夜。大手前広場の真ん中にピラミッド状に積み上げた石にスターマインを差立てて点火。シュシュシュ、、、。とそこで倒れた、花火が。火の玉が転がり落ちこちらへ向かってくる。シュシュシュポンポンポン。地面を跳ねながら次々と襲ってくる。逃げても逃げてもポンポンポン。のきが「バカ―、横へ逃げろ」と叫んだが遅し、もう、広場の端まで来てしまった。

元小学館・学年誌などの編集を担当した。

 
 

おとなはみんな子どもだった

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