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“1月11日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*708=和銅元年  武蔵国秩父郡で発見された銅を献上された元明天皇は元号を和銅に改めた。

現在の埼玉県秩父市黒谷で見つかった和銅はいわゆる自然銅で「ニギアカガネ」と呼ばれていた。わざわざ当時の都の奈良・藤原京に運ばれて朝廷に献上されたことがよほどうれしかったのか。女帝天皇は<祥瑞>としてそれまでの年号(慶雲)を改元した。さらに官人などに禄物を賜り、武蔵国のその年の年貢を免除するなど大盤振る舞い。この銅を使って早速、わが国最初の広域流通貨幣といわれる「和同開珎(かいちん)」が鋳造された。

和銅年間の主なできごとを紹介すると3年:平城京への遷都、藤原氏による興福寺造営の発願 5年:太安万侶による『古事記』完成、出羽国建国 6年:丹後国、美作国、大隅国建国、諸国に『風土記』の編纂を命じるなどがあげられる。和銅は露天掘りで採掘されていたが純度が高く精錬しなくてもそのまま使えたことで貴重な鉱物資源だった。しかし庶民にとっては米や布を基にした物々交換の時代だったから貨幣の流通もせいぜい畿内=近畿地方が中心で海外などでの発見は「宝物」としての扱いだったのではとされる。

*1922=大正11年  交通事故の激増に対処して最初の「自動車取締令」が制定された。

2月15日から施行となったが最高速度は「1時間16哩=時速25キロ」といまなら考えられない速度だった。それでも事故が絶えず、町中を多くの「赤バイ」が走り回っていた。最高速度は1933=昭和8年の改正でようやく50キロになった。

*1867=慶応3年  パリ万博を視察する幕府一行が横浜港を出発した。

一行は将軍徳川慶喜の弟で水戸藩の徳川昭武、薩摩藩家老岩下方平ら31人だったが、いずれも「外国人を夷狄(いてき)と見る頑固者ぞろい」とあって心配した慶喜は一行のなかに<ものの理解ある>渋沢篤太夫を加えた。後の実業家・渋沢栄一である。

パリ万博は1855年に次いで2回目で42カ国が参加して4月から11月まで開催され会期中に1,500万人が来場した。日本は初参加で江戸幕府のほか薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展した。なかでもいちばん力を入れたのが薩摩藩で「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に陶磁器などの美術工芸品や煙草、織物などを展示した。

しかも「薩摩琉球国勲章」を作成して<勲章外交>を繰り広げたからフランスだけでなくヨーロッパの貴族の間で有名になった。幕府は「二国外交」ではないかと薩摩藩に抗議したが聞き入れられなかったため独自の勲章制作を始めたが実現しないうちに倒れてしまい<幻>に終わった。ここにも幕末の政争の一端が現れているのではあるまいか。

*1887=明治20年  「一般庶民にも洋食や肉食会が流行」とこの日の読売新聞が報じた。

前年あたりから外国人との付き合う機会が多くなった影響で西洋料理を食べない者や食べ方を知らない者は不都合であると考えられるようになった。毎日新聞は高木海軍軍医総監などの取材から「西洋人と交際することになれば第一に飲食上の礼法=マナーを心得ていなければならないと考えて海軍軍医の夫人令嬢達の有志を集め築地精養軒で毎月3回ずつ洋食会を開いている」と紹介している。

読売新聞は「上流階層において行われた洋食会や肉食会が全国的なブームを巻き起こした。肉食会を例にとると、たとえば和歌山県ではある牧牛会社が肉食会員を募集したところすぐに八百余名の加入者があって同社内に事務所を設け会員に販売する手筈を整えた。会員に販売する牛肉の値段はロース8銭、上等6銭より5銭、中等肉で4銭より3銭であった」とこちらは会員になった場合の割引サービスまで紹介している。

東京日日新聞は「大阪でも洋食は大流行」という見出しで「ちょっと使いに出た丁稚まで、中等一人前に酒はジャパンでよろしいなどキメ込むも可笑し」とからかい気味に取り上げている。かくして<洋食嫌いとは不都合な時代>がやってきたのであります。

*1638=寛永15年  幕府軍が一揆勢の籠城する原城をオランダ船に攻撃させた。

元旦の総攻撃に失敗した幕府軍は上使(総司令官)の板倉重昌を失い後任に「知恵伊豆」と呼ばれた老中松平信綱を据えた。信綱は10万以上の大軍で城を囲み「兵糧攻め」に転じる一方でオランダの大砲の力を借りることにした。

この日、オランダから借りた大砲5門を砲台に据え、沖からはオランダ船と陸と海から砲撃を行った。そのうち一発は天草四郎のすぐそばに落ちたが間もなく城から矢文が。そこには「国中に立派な武人が多くいるのにオランダ人に加勢を頼むとは何事か」と書かれてあった。幕府内部にも批判が出て砲撃は中止されたが、近世の民衆運動鎮圧に外国勢の力を借りたのは後にも先にもこれだけだった。

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