1. HOME
  2. ブログ
  3. “7月12日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“7月12日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1789年  大借金のルイ王政の実質破綻でパリは天井知らずの物価高騰にあえいでいた。

赤字額は歳入の実に9倍となっていた。緊縮財政をかかげる財務長官のジャック・ネッケルが反対するマリー・アントワネット一派によって前日に解任されたことで金融業者たちはこの日早朝から襲撃を防ぐための私兵を競って集めるなど自衛に狂奔していた。もっとも国王ルイ16世ひとりが財政の逼迫を生んだわけではなく先々代からの累積ではあったが自身のアメリカ独立戦争への野放図な援助も赤字をさらに増大させた。また宮廷の浪費も一向に改まらなかった。

物価の高騰は6年前の1783年6月に起きたアイスランドのラキ火山の噴火が引き金となった。火山灰による日照不足が農産物や牧草を枯らし畜産にも打撃が及んだことで食料不足は、前年の嵐でさらに農作物が大被害を受け貧困の拡大と飢饉を招いた。

ネッケルはスイス生まれの銀行家でルイ16世が財政立て直しのために抜擢した人物だった。外国人ではあったが銀行家として成功を収めていた。絶対君主制の支配下では「第一身分」のカトリック聖職者や「第二身分」の貴族ではなく「第三身分」のなかのブルジョワ層だったから庶民には人気があった。王妃やその寵臣たちに質素倹約を進言したために1781年に一度罷免された。

ところが国家の窮状を救えるのはネッケルしかいないとして再度起用されたにもかかわらず2度目の解任となったことで混乱を見越しての<私兵買いあさり>となった。こうした民衆の不満が爆発するのがこの2日後に起きる兵器庫も兼ねていたバスティーユ監獄の襲撃だった。まさに「革命前夜」の危うい状況がパリを呑み込もうとしていた。

*1925=大正14年  NHKの前身となる東京放送局が芝の愛宕山から本放送を開始した。

前年11月に社団法人として設立され、3月1日から試験放送を行い、22日から仮放送を行った。なぜ試験放送、仮放送、本放送とややこしくなったかというと、もともとは3月1日から放送を開始する計画だったがまだ日本にたった1台しかなかった放送用送信機を同じく放送準備中だった大阪放送局に買い取られてしまったから。あわてて東京電気研究所の送信機を借りて放送用に改造して使うことにしたが逓信省の検査許可が下りなかったため試験放送とせざるを得なくなった。そうしたすったもんだの末に22日の仮放送、ようやくこの日の本放送にこぎつけた。

放送信号はJOAKで本放送には2台目の放送用送信機が間に合い、前日にはスタジオで放送練習が行われた。つまりリハーサルです。東京朝日新聞は12日の朝刊で「声のお芝居 汗の淀君」という見出しで報じた。目玉番組のラヂオ劇「桐一葉」に歌舞伎の大御所の中村歌右衛門(5世)が“汗だく”で当たり役の淀君を演じたから。坪内逍遥の最初の戯曲で大阪冬の陣での落城間近の大坂城が舞台で淀君は気位が高くヒステリックな性格として描かれている。放送用送信機を先に押さえられた腹いせに、ということはないだろうが大阪には何だか当てつけみたいですなあ。最初に機材は揃えた大阪の仮放送開始は6月1日からとなったのは別の事情もあったのか。

脱線したが収録の様子を記事は
61歳の老体を頭からポッポ湯気を立てて淀君役の歌右衛門さんが「それぢやと申して上様が」などと声を絞ってゐる所などよそ目にもさぞ暑いことで御座ろうと察し入るばかりでした。又地下室の電気室にはモーター10台分がすゑつけられて、決して市内の停電で放送がポツンと切れる様な事はありません。J―O―A―K、東京放送局引越しの一段落之を以て終わります。

と紹介し、下段には「けふの放送」として初めて放送プログラムが掲載されている。

 朝の部(午前9時)
  「君が代」 陸軍軍楽隊
  本放送のあいさつ 後藤新平子(=初代総裁)
  「奏楽七曲」 陸軍軍楽隊
 昼の部(正午)
  謡曲「羽衣」 室生重英
  ラヂオ劇「桐一葉」(午後零時半)淀君 中村歌右衛門
  管弦楽 近衛秀麿氏指揮 童話 久留島武彦氏
 夜の部(午後7時半)
  長唄「小三蔵」 尺八(古童、岱童)
  管弦楽 日本交響楽協会 山田耕作氏指揮
    曲は山田耕作氏作「J・O・A・K」白秋の「からたちの花」ほか

当時はレコード以外には録音技術などなかったのでこれをすべて当日演奏、放送したのだからたいへんな苦労だった。東京、大阪、名古屋放送局がいったん解散して日本放送協会(NHK)になるのは翌1926=大正15年8月20日。

関連記事