1. HOME
  2. ブログ
  3. “8月28日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“8月28日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1299年  マルコ・ポーロがジェノヴァで釈放され故郷ヴェネツィアに帰還した。

イタリアを長靴の形に例えると<付け根>の西側フランス寄りがジェノヴァで東側ギリシャ寄りがヴェネツィア、都市国家の<二強>として覇権を争っていた。マルコはこの4年前に26年間にもわたる中央アジアやインドなど東方への旅行を終えてヴェネツィアの土を踏んだ。会う人ごとに自身の「東方見聞談」を聞かせたが当時の人々にとっては信じられないことだらけで“ほら吹き”とまでいわれた。さらには長く仕えた元の皇帝クビライを、百万の富を持つとか、百万の軍隊がいるなど形容に<百万の>を連発したので「イル・ミリオーネ=百万男」のあだ名までついた。

それもあって街には愛想が尽きたのかヴェネツィア艦隊に志願すると櫂で推進する小型戦艦ガレー船の司令官に採用された。遠距離の航海は難しいが風向きが一定しない地中海では小回りがきき、無風でも動ける利点から当時の海戦の主力だった。しかしヴェネツィア軍の完敗となった98年の海戦でジェノヴァ艦隊に捕えられてしまう。このときに捕われたのは1万人にものぼったという。

ジェノヴァの牢獄でもマルコは退屈しのぎに何度も旅行談を披露した。ここで一緒だったピサ出身の物語作者ルスティケロがマルコの話に興味を示してそれを細かく書きとった。ピサはイタリア半島の東側の都市国家でヴェネツィアの南東120キロにある。同じ牢獄にいた理由には諸説があるが、ピサとジェノヴァとの「メロリアの戦い」で捕虜になったからとされる。牢獄の囚人たちが面白がってマルコの話を聞いただけならせいぜい人気ある「百万男」で終わっただけだろうが、文才のあったルスティケロと出会うという偶然が世界の叙述といわれる『東方見聞録』の誕生につながった。

*1922=大正11年  ニューヨークのラジオ局WEAFが世界で初めてコマーシャルを流した。

日本のラジオ放送はこの3年後に始まるが公営放送のNHKの前身で、民放誕生は戦後の1951=昭和26年だからかなり遅れてということになる。

離合集散が繰り返されたアメリカのラジオ局の例に漏れずWEAFもRCA傘下に吸収され、そのRCAはもうひとつのCBSと同じように巨大ネットワークに成長していく。家庭にまだラジオがほとんどない時代から人気があったのは音楽とニュース報道で、これはいまも変わらない。アメリカのラジオは大統領選のたびに聴取者を急速に増やしていったといわれるが、最初にラジオの電波に乗ったのは1920年に共和党のウォレン・ハーディングと民主党のジェームズ・コックスで争われた大統領選挙である。第一次世界大戦後の余波のなかで行われ、外国の影響から独立した工業化と経済力の促進で正常な国に戻す「アメリカが一番」というキャンペーンを展開したハーディングが圧勝して第29代大統領に就いた。たしかに<ラジオ受け>は良かったのでしょう。就任後は閣僚の贈収賄などのスキャンダルなどもあって「アメリカ史上もっとも成功しなかった大統領」とまでいわれた。

ところで冒頭のコマーシャルが何の宣伝だったかについては調べたが分からなかったと正直に書いておく。

*1454=享徳3年  頼朝の藤原氏討伐で逃れてきた武田信広が蝦夷地松前に渡った。

鎌倉幕府は津軽・十三湊を本拠とする安東氏に津軽を管轄させ蝦夷地の統制を命じていた。安東氏にそれだけ力があったからだが、同じように逃れてきた多くの武将が安東氏を頼って津軽海峡を渡り蝦夷地へ逃れた。平泉で討たれた源義経もあるいは同じように蝦夷地に逃げのびたのではないかという「義経伝説」が生まれたのもこうした背景があったから。<ただの人>となった武将たちは過去の栄光を捨て、他の和人と同じように本州から最も近い渡島半島に住みついた。蝦夷地、今の北海道は古くは「越渡島(こしのわたりしま)」と呼ばれていた。津軽海峡は西側の竜飛崎と渡島半島白神岬の間がわずか約20キロで半島名の渡島(おしま)は、わたりしまの南部方言という説もある。

武田信広は若狭国守護だった武田信栄(のぶしげ)の遺児で、叔父の信賢(のぶかた)が守護になったため21歳の時に国を出た。流浪を重ねた末にようやく下北半島の安東氏領の田名部に住みついたとされる。安東氏とは日本海交易を通じての縁があったからといわれる。田名部の地を南部氏との抗争で追われたため、同じく安東氏のつながりで松前に渡ると、この地の「花沢館」の蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の娘婿に迎えられた。館とは堀などを巡らせた初期の城郭で半島一帯の海岸沿いの12カ所に館があった。花沢館は日本海側のいまの上ノ国町にあり、天の川をはさんでアイヌ居住地とは北東の最前線だったが平時には毛皮などを持ち込むアイヌと和人商人との交易の拠点でもあった。信広は3年後の1457=康正3年5月に起きたアイヌ蜂起「コシャマインの戦い」に出陣し、いったんは劣勢に追い込まれた和人館主軍を取りまとめて反攻すると首長コシャマインを討って武功をあげた。その後は館主らの指導的位置に就き名を蠣崎姓に変えた。蠣崎慶広(よしひろ=五代)が豊臣秀吉から蝦夷地支配を認められて松前氏を称し、江戸時代も蝦夷地領主として唯一「封」を受けた。

関連記事