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“9月21日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1933=昭和8年  宮沢賢治が午後1時30分、岩手・花巻の自宅2階で亡くなった。

37歳。父・政次郎、母・イチらに見守られた。死因の急性肺炎は疲労が重なったことで更に悪化したとされる。死の前日にも肥料の相談に訪れた知人にせっかく来てくれたのだからと夜遅くまで話し込んでいた。熱心な仏教徒だったから「妙法蓮華経を1千部出版して友人知己に差し上げて下さい。表紙は赤でお願いします」が遺言だった。

誕生2ヵ月前に三陸沿岸部に襲来した大津波で死者・行方不明者2万人超を出した明治三陸地震(1896=明治29年6月15日)が発生した。誕生日の4日後にこんどは最大の余震となる陸羽地震(8月31日)が起き、秋田・岩手県境の横手盆地で死者209人を出した。死の半年前には昭和三陸沖地震(3月3日)が再び沿岸部を襲い、明治の際の教訓はあったものの死者・行方不明者1,542人を出した。

実家は質店兼古着商だったから幼少時より震災の影響を長く引きずり、追い打ちをかけるように頻発する冷害によって深刻な凶作に苦しむ農民らの姿を見てきた。後年、農業指導に注力して多くの農民の肥料や種子の相談に乗り遠方をいとわず出かけて相談に乗った。ほぼ語りつくされた感のある賢治だからあえて紹介すれば花巻農学校の前身・稗貫(ひえぬき)農学校時代から教師をやめて農耕自炊生活に入った時に発足させた「羅須地人協会時代」にかけて寝る間も惜しんで自身でせっせと書いたガリ版資料ではないだろうか。謄写版印刷の原紙を<ガリ切り>で数千枚書いた。電灯の下でカリカリ、カリカリと孤独な作業をひたすら続けたわけだ。

  春 陽が照って鳥が鳴き
  あちこちの楢の林も、
  けむるとき
  ぎちぎちと鳴る 汚い手を、
  おれはこれからもつことになる         (『春と修羅』)

  十一月二十九日午前九時から
  われわれはどんな方法でわれわれに必要な化学をわれわれのものにできるか 一時間
  われわれに必要な化学の骨組み                             一時間
  働いてゐる人ならば、誰でも教へてよこしてください
                         (「集会案内」)

「農民芸術概論」「肥培原理取得上必要十物質の名称」「土壌要務一覧 岩手縣中部地域ニ於テ」「イーハトーブ農民歌」・・・テキストや講義プリント、招待券まですべて謄写版による手づくりだった。招待券は

     花 巻 農 學 校
     田 園 劇 試 演
            招 待 券
                八月十日后六時

とデザインされ、農民歌は五線譜に音符まで丁寧に書き込まれるなど賢治の<凝り性>の性格が見える。

技師をしていた東北砕石工場の石灰肥料の宣伝販売などには愛用のトランクを提げて東京に出かけた。その中に残された手帳に「雨ニモ負ケズ」が書き留められていた。死後に詩人の草野心平によって激賞されたひとつだがまだ推敲段階だったのか謄写阪印刷にはなっていなかった。生前に刊行されたのは詩集『春と修羅』、童話集の『注文の多い料理店』だけでまだほとんど“無名”だったが草野の尽力で文圃堂、十字屋書店、筑摩書房から作品が次々に出版された。

昭和三陸沖地震の惨状を歩いて確かめるだけの体力があったかはわからないが知人からの見舞状の返事に「海岸は実に悲惨です」と書き残している。天候と気温や災害を憂慮しながら生きた賢治は<自然との交感力>が際立っている。郷土の農民たちと共に生きていく覚悟、それもあって「雨ニモ負ケズ」をはじめ多くの作品を残した賢治の生き方や作品が今回の東日本大震災のあとあらためて注目されているのではあるまいか。

*1836=天保7年  「三河加茂一揆」が起きた。

三河国(愛知)加茂郡松平地区で米などの物価引き下げを要求して数十人が集会を開いた。参加者があっという間に数千人にふくれ上がり「貧乏人を顧みずに高値に売って金銭をかすめとる商人に<世直し神>が天罰を加える」と叫びながら米屋や酒店を打ち壊した。

これに参加した村は二百以上になる大騒動になったが24日に挙母(ころも)城下で岡崎、挙母、尾張の藩兵が鉄砲を放ってようやく鎮圧した。この一揆は「世直し」を呼号した先駆的事例として知られるが水戸藩主の徳川斉昭が将軍に建白した『戊戌(ぼじゅつ)封事』に翌年の大塩平八郎の乱とともに<内憂のあらわれ>のひとつとして記録している。

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