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私の手塚治虫(4) 峯島正行

手塚、馬場、小島の個性

コンテ執筆中の手塚氏

コンテ執筆中の手塚氏

手塚の市民社会性

漫画集団の仲間の中で、手塚が特に親しくし、交流も深かったのは、馬場のぼると小島功であった。とくに馬場とは刎頸の交わりと言っても過言ではない深い交友関係にあった。手塚は、よく馬場の似顔を、自らの漫画の中に登場させていた。中には主役クラスのキャラクターとして扱っているものさえある。ある評論家が、手塚漫画の中の百人の好きなキャラクターをあげたとき、その中に馬場のぼるを上げている。

小島功に対する信頼ぶりも深いものがあり、自分の知らない世界の先導者として、敬愛の情を持っていたと思われる。私は、手塚を最初に夜の銀座に誘ったのは、小島ではないかと思っている。

小島は、来るものはついてこいと言った豪放を装いながら、夜の銀座で一緒に遊ぶ人は相当に厳選していたと思われる。その場合気の合う、合わないということの他に、相手の嗜好や経済状態までを考えて誘っていたようだ。たとえ竹馬の友と言ってもいい漫画仲間でも、相手の生活状況を考えて誘わない人もあった。大雑把に湯水のように金を使って遊んだように見えて、相当に細かく気を遣っていたのだ。

仕事に常に追われている手塚に対して「手塚君はもっと銀座を知るべきだよ」と、いかにも言いそうな気がする。

考えてみると、手塚、小島、馬場の三人ほど、出自、育ち、性格、作品、仕事ぶり、がそれぞれ目立って違う個性を持っていた友人同士はないであろう。

かつて小林一三という夢多き事業家がいた。阪急電鉄、東宝を築いた男である。彼が成し遂げた事業をいまさらここで述べるのは、唐突の感を抱かれるかもしれないが、手塚を語る場合に、見逃してはならない人物なのだ。

小林の業績のうち、三つの事業を特筆すべきだと思う。明治末年、有馬箕面電気軌道という郊外電車の経営にあたってから、昭和初年までの間に、この小さな電車をもとに、特急だと、大阪神戸間を30分以内で走る阪急電鉄に、拡大発展させたことが、その一つである。

次に、この電車の発展のために、沿線に住宅開発の経営を積極的に行い、乗客を確保したことである。この住宅地は、庭を広く取り欧米風の住居を建て、関西の経済的発展によって生じた、中産階級の居住地となし、ここに住むことがステイタス・シンボルとならしめたのである。その結果、日本の社会経済史の特殊性から、育ちにくかった市民社会的意識が、この沿線の住民の間には、芽生えたといえよう。

田園調布とか、成城学園とか、東京郊外に生まれた高級住宅地は、阪急の住宅地の真似に他ならないのである。

三つ目は、今更言うまでもない世界にその例を見ない「宝塚少女歌劇」の育成である。有馬箕面電軌の、終点になった宝塚温泉の余興として生まれた「少女歌劇」が、小林の努力で、今日の「タカラヅカ」に成長したのである。

手塚の生れた家は、阪急が生んだ居住地の典型的な中産階級の家庭である。その家系といえば、由緒のある家柄であった。

治虫の曽祖父は手塚良庵と言い,緒方洪庵の適塾出身で、仙台藩の侍医であった。祖父太郎は長崎控訴院長を務め、父の粲(ゆたか)は、住友金属工業の社員であった。また手塚の母は、陸軍中将の娘で、女性として、一通りの教養を積んでいたばかりでなくピアノ、バイオリンなどの西洋クラシック音楽を身につけていた。その為に、手塚はピアノも弾ければ、バイオリンも弾いた。

手塚は豊中市に生まれたが、幼児のころ宝塚に移った。そこから池田市の池田師範学校付属小学校に通った。卒業してからは、大阪の一中と言われた大阪府立北野中学から、浪速高等学校に進んだが、学制改革で、旧制の高等学校が改変されたため、大阪帝国大学医学部付属医学専門部に入学し、そこを卒業。関西の豊かな家の秀才のたどる道を歩んだのだ。日本の漫画家で、このようにハイカラな家に育ち、しかも秀才教育を受けた人は、手塚の他にはいまい。漫画家としては、その意味でも手塚という人間は、異色なのである。

なお幼児のころから、宝塚に馴染んだ。家が宝塚大劇に近く、隣に宝塚スターの天津乙女の家があり、近所に多くの宝塚スターが住んでいた。加えて手塚の母と天津とは親交があった。手塚の母は、宝塚ファンで、毎月幼児の手塚を連れて見物に行ったという。

私は、手塚の作品を見ると何となく、宝塚の舞台の影響が嗅ぎ取れるような気がするし、また彼という人間の心に、そこはかとなく宝塚的な抒情が漂うのを、嗅ぎ取れるような気がしてならない。

狐が鳴く村の生活

このような育ちの手塚に対して、馬場のぼる、小島は全く別の世界の住人として育っている。馬場は今度の震災で打撃を受けた、青森県の三戸市の出身で、製材商の番頭の息子であった。三戸は山あいの盆地に開けた細長い町である。町の風情について、馬場は書いている。

「城下町のせいか、三戸の町は、道路がイヤに曲がりくねっていて、それに沿って一並び

の町並みが、細長く飴のように伸びている。

町の北のはずれに、真に雄大な眺めの、松並木があって、これが三百米にもわたって濃い緑のトンネルを作っていて、ちょうどその真ん中へんにわが家があった。

風の吹く日はこの松並木全体がゴウゴウ音を立ててざわめき、一夜明けると枯れ松葉が、道路一面に赤茶色のジュウタンを敷き詰めたようになる。熊手でかき集めると、みるみる抱えきれないほどの山になって、この界隈では、これを蓄えておいて炊きつけにしていた。霜の降りる朝など、学校にゆきがけにわれわれガキどもは、道端でこの松葉で盛大な焚火をやったりした。パチパチ実に威勢よく燃えて、ムラサキ色をした煙が鼻の奥につんときて、これがまた何とも言えない。すると誰かがサツマイモなど持ってきて、それが焼けるのを待っているうちに、もう学校に遅れてしまうのだ。

まあ、そんなことをしながら、私は大して勉強もしなかったが、通信簿はたいてい甲が並んでいた。(『第2期・現代漫画4 馬場のぼる集』 あとがきより)

これは馬場が少年時代を回顧した文章の一節だが、あまりにも馬場の漫画を髣髴させるので、少し長いが引用した。

馬場は、中学生時代予科練を志願したが、すぐに終戦となった。終戦の翌年、岩手県は、未開の山野を開拓地として、住民に払い下げ、開拓村を育成するという計画を発表した。馬場とその兄はこれに応募して、その開拓村予定地に移り住んだ。

その開拓予定地というのは、石川啄木の生れた、岩手県の渋民村からさらに三里奥地に入った寒村であった。その村から一番近い市街地は盛岡であったが、盛岡に行くには一里半の道を歩いて、花輪線というローカル線に乗るのであった。その村では、冬になると家の近くで狐が見られた。馬場は当時を回想してこう語っている。

「夜中に小便に起きると(当時、田舎では便所は家の外にあった)見渡す限りの銀世界、月が青く冴えている。そして狐のギャーギャーと鳴く声が、山に木魂して、無気味だったな」(拙著『ナンセンスに賭ける』平成四年 青蛙房)

まさに彼の漫画の舞台である。しかしいっこうに、開拓のための土地の払い下げは実行されない。生活に窮して、馬場は村の大工に頼んで、その徒弟にして貰った。

大工道具を担いで、親方の後について歩くだけでなく、村人の井戸堀の手伝い、道普請の手伝いなど、村の人として働いた。一年ほどたったが、結局土地の払い下げは実行されないので、兄と三戸に帰った。教員をしていた姉に勧められて、代用教員をすることになった。教員生活の間に彼は、絵を描くことに目覚め、独学で絵画の勉強をしたのである。

彼が絵の勉強を始めると、狭い田舎町のことで、それが忽ち近隣に知れ渡った。町にドサ周りの劇団がやってきたときには、公演会場の人に頼まれ、ポスターを描いたりした。

また街に一つしかない映画館の、看板のペンキ絵が、あまりに稚拙なので、この看板を描かしてくれと頼んで、自ら描いたという。田舎の映画館は、週に何回もプログラムが変わるので、結構忙しく、働いたという。

代用教員なって1年半ばかり勤めてから、米軍キャンプにアーティストとして勤める。八戸の郊外に米軍落下傘部隊が駐留していて、その部隊の慰安設備として、サービスクラブがあった。そこで、米兵が酒を飲んだり、踊ったりして楽しむ施設であったが、アーティストとは、そのクラブのポスター描くのが仕事であった。連日開かれるパーティーに、米兵を呼ぶための宣伝ポスターを描くのだが、絵を描く仕事なので、馬場は喜んで働いた。

そのうちに三戸に住む文化人たちが同人雑誌を出すようになって、そのカットを頼まれて描いた。そこで、疎開してきていた児童文学者の白木茂と知り合ったが、白木が東京に帰る時、一緒について上京した。

これが馬場の漫画家になる前の略歴だが、手塚の育ちと比べると、別世界の人間と言えよう。

手塚が近代市民社会の青年とすれば、馬場は村落共同体の若者であろう。

セーヌのたそがれ 馬場のぼる(1967年6月)

セーヌのたそがれ 馬場のぼる(1967年6月)

根っからの下町っ子

 

小島功はこの二人にとはまたまた縁のない社会の育ちだった。

彼は、荒川区尾久の育ち、子沢山の洋服屋の長男であった。尾久は日暮里の北、隅田川に面した下町である。父は洋服を縫う職人でもある。長男の小島は当然家業を継ぐべき運命にあった。

彼は大変な腕白小僧で、常に近所の少年たちのガキ大将となって遊びまわるのだった。本や雑誌とは縁の薄い少年である。

或る時、ドッジボールの球を胸に受けたのがきっかけで、乾性肋膜炎を患った。以来大事な長男であるから、母親が用心して外に出さないようにしたのだ。

少年は仕方がなく、雑誌や本を読んで暮らす。少年倶楽部の田河水泡「のらくろ」シリーズ、島田啓三「冒険ダン吉」など漫画に刺激されて、漫画家になりたいと思うようになっってゆく。雑誌の漫画に飽き足らず、漫画の単行本を読み漁った。

当時児童漫画専門に出版していた中村書店という出版社があった。そこでは布張りの上製という豪華な単行本を沢山出していた。

その中に謝花凡太郎という作家の『ちょんごくう』という漫画が気に入った。中村本にはその他に沢山の漫画があったが、いずれも自由自在な発想のもとに、描かれた漫画が多く、講談社の教訓的な漫画より数頭面白かった。ところが漫画家を志望していることが知れると、母親が激昂した。彼が小学校五,六年ごろ、昭和一三,四年の頃だと思う。

そのころの東京下町の気分からいうと、漫画や絵などを描いて食ってゆけるものではない、と考えるのが常識で、洋服屋を継ぐべき長男がそんなことしていたら、一家は破滅すると、母親は、小島の持っていた漫画の本や雑誌をすべて、竈にくべて燃やしてしまったという。

そんなことで困った小島は、小学校の絵の先生に相談した。小島としては、どうしても漫画家になりたかったのだ。幸いにもこの先生は大河内幸俊という人で、後に光風会の会員画家として活躍した人である。

「それほど漫画家になりたいなら、石膏デッサンを続けなさい、四年もすれば物の色が見えてくる、そのうちに漫画家になるチャンスが来るかもしれなないよ」

と諭してくれた。小島は、この言葉が身に沁み、彼は生涯、デッサンを大切にしたという。

小島は親に内緒で、某雑誌の漫画募集に応じて投稿したところ、一発で入選した。それに味を占め、続けて投稿するようになった。

一回投稿が入選すると、大反対だった母親の態度がガラリと豹変して、もう絵描きとして認められたのだから、それなりの格好をしないといけないといって、夏冬用の紋付き袴を揃えて作ってくれたという。本当に古風で律儀な下町らしい話と言えよう。

尋常小学校を卒業しても、下町の商店の子供はめったに中学には進学しない。せいぜいが高等小学校を出て、家の商売を見習うか、小僧に行くのである。

彼も高等小学校に通った。そのころになって床屋等で、「キング」「講談倶楽部」などの大人向けの娯楽雑誌を見て、初めて大人の読む漫画の世界があるのを知ったのである。

以来子供漫画を捨てて大人向けの雑誌をあさり、漫画の投稿欄で権威のあるといわれた「アサヒグラフ」を毎号読むようになった。

そのころは近藤日出造主宰の雑誌「漫画」も発行されていた。それも毎号読んだが、その中の杉浦幸雄の「世態模写」という風俗漫画に惹かれた。

「周りの漫画がすべてごつい戦争の漫画ばかりなのに、一人杉浦さんの漫画は情緒纏綿とした風俗漫画で、その情感にうたれた。僕もこういう漫画描きたいと思った」(『ナンセンスに賭ける』と小島は語っている。

その一方で恩師大河内教師のすすめで、川端画学校にも通う。そこで加藤芳郎に出会う。加藤の名前は「アサヒグラフ」その他の雑誌の投稿欄の常連入選者として知っていた。そこで三、四人の漫画家志望者がグループになった。小島のあるところ、これを皮切りに、いつもグループが出来た。これが漫画家小島の特色となったのである。それがのちに、独立漫画派の成立につながる。

川端学校に入学したころ小島の母は、画家になるには、小学校だけしか出ていない小島に教養が必要であろうと、家庭教師を付けたというから、小島の母親は、なかなかの賢夫人だった。

その先生というのは早稲田の仏文科の学生で、近くに住んでいた石井喜久という青年だった。この人は後に詩人として知られ、早稲田の教授になった。

そういう人だから薫り高いフランス文学のエスプリを、少年に伝えようと一生懸命で、また重い美術全集抱え込んできて、西洋美術の伝統を、集中的に教え込んだという。この先生は昭和一八年学徒動員で、戦場に征ったが、このことについて小島はこう語っている。

「あの先生のお影で、知的な面で大人になれたと思う。あの先生に合わなかったら、下町の凸版屋の小僧で、ぼくは終わったかも知れない。

その後僕は若い大勢の仲間を持ったが、彼らの中で僕が大人に見えたのは、あの先生に知的に開眼され、勉強の方法を知り、本を沢山読んだからだろう。つまり知性を身に着ける術を教わったと思っている。」(『ナンセンスに賭ける』)

昭和二十年三月一〇日、米空軍B29による大空襲で、下町一帯は焼け野原となった。小島の家も焼けた。小島一家は、埼玉県深谷の在の田舎に疎開したが、小島は一人居残って、浅草の菩提寺、明徳院に居候をした。

戦後明徳院の和尚は、浅草観音、つまり浅草寺の執事長になった。小島もそれを機に浅草寺事務員として、そこに寝起きすることになった。小島が生涯で月給を貰ったのは、このときだけだという。和尚は小島に僧として残ることを勧めた。「このまま勤めていれば末寺の住職にはなれる」という。小島はどうしても漫画家になる、と言い張って寺を出てしまった。

「あの和尚さんは今でも尊敬している。大変度量のある人で、いつもにこやかだった。私は洋服屋の跡取息子としてわがままに育てられたが、あの和尚に我慢する道を教えられた。」

(前掲書)

小島は親分堅気で、常に周囲に漫画家があつまって、いろいろ実績を上げたのは、この和尚の人間的影響かもしれない。

寺を出たころ父親が、疎開先から上京し、幸運にも花川戸に出来たバラックの都営住宅に抽選で当たった。そこで小島も暮らすことになったが、まだ周囲は焼け野原、浅草松屋や観音様の屋根まで見通しだったという。漫画家志望の若者が集まる場所もなかった当時、加藤芳郎を始め、六浦光雄、中川かずといった先輩から、若い同年輩の漫画家まで集まってきた。

小島は根っからの酒好きで、十三,四歳のころから飲んだという。戦時中、国民酒場というものが出来て、庶民はそこの店先に並んで酒にありついたのであった。小島は父親の代わりにその行列に並んだが、順番が来ても、父親が来ないので、自分で飲んでしまったという逸話もある。

戦後浅草寺に住んでいたころ、地下に所蔵されていた幾樽もの4斗樽の酒を、毎日に飯代わりに、一升ずつ飲んで、ついにすべて飲み尽くしたというという伝説もある。二十歳前に、すでに大酒豪であった。

そういう小島が家主だから、花川戸の家に漫画青年が集まってくると、酒盛りが始まる。漫画で稼いだ金も、アルバイトで得た金もみんな酒に消えてしまう。

そのうちにマスコミが復活してくると、自然収入も増える。ますます酒を飲む機会も増え、宴が果てると赤線に繰り込むという有様であった。下町の道楽者の集団のような生活となったが、漫画に対するする真剣さは失われなかった。その仲間から、新しい漫画の芽生えとしての、小島を中心とする独立漫画派が育ってゆくのである。

御曹司のような生まれの手塚が、こんな街の道楽者の集団のボスとも、付き合うようになるだから、人生は愉快なものである。

カプリ島の陽光の下で  小島功(1967年5月)

カプリ島の陽光の下で  小島功(1967年5月)

四,五年目ごとに来る危機

さて手塚と、馬場、小島は以上述べたように、育ちも個性も違うのであるが、その漫画に向かい合う態度もそれを描く態度も、それぞれ全く違う。それは育ちにもよるだろうが、また三人の個性にもよるのだろう。

手塚のプロ漫画家としての出発を、昭和二十二年発刊、児童漫画界に新風を吹き込んだ、「新宝島」とすれば、手塚が漫画集団に参加した昭和四〇年ごろまで、すでに二〇年近くの歳月を経たことになる。

その間、手塚は「ジャングル大帝」「リボンの騎士」「鉄腕アトム」「火の鳥」などの超大作を作り上げ、その他に、無数と言っていい児童向けの作品を発表し続けた。その間、手塚は漫画に対し、終始変わらぬ態度を持してきた。

それは、常に時流の先端に位置するということである。昭和二十三、四年代に、手塚は戦後出発した、当時の若手漫画家、馬場のぼる、福井英一、山根一二三、古沢日出夫、太田じろうなどで、島田啓三を会長にして、東京児童漫画会を結成した。この会のメンバーは一時期、羽振りがよかったが、いつの間にやら、その後出てきた若い漫画家、いわゆるトキワ荘グループと言われる、藤子不二雄、赤塚不二夫、石森章太郎、水野英子、寺田ヒロオ等の新しい人気漫画家にとって代わられて、それ以前の漫画家は、第一線から次第退いていった。

東京児童漫画家のメンバーや同年輩の作家で、その後も児童漫画家として描きを続けたのは、手塚一人となってしまった。馬場はその読者の成長とともに、大人漫画に転じて行った。

こういう児童漫画界の新陳代謝の激烈さについて、手塚は次のように語っている。

「子供マンガの激烈さは、従来の大人漫画の世界では、考えられない。そしてその新陳代謝は、四,五年目ごとにやってくる。それは読者である子供が、五年たつと全く変わってしまう、つまり読者が交代してしまうからだ。新しい読者が現れると,彼らの時代感覚は今までのそれとは全く違う。今まであった漫画の作風を全く受け付けない。同じ作風に固執している作者は、皆ふるい落とされる。そうして新しい作風を以って出てきた新しい人に読者は集まってしまう。こうして現在の人気漫画家は、戦後、四代目か、五代目になっている。

こういうわけで、九割までの児童漫画家は五年の寿命しかない。せいぜい長くて二世代十年である。

中略

私も、この四,五年目ごとに来る世代交代の時、いつも深刻なジレンマを経験した。気分を一新するために、さまざまな試みをして、苦しんだ。そうして作風を一新して出直したものだ。「鉄腕アトム」にしても「ジャングル大帝」にしても、最初のころと今のものとでは、全く異質な漫画になっている」(拙著 『現代漫画の五〇年』昭和四五年 青也書店)

手塚はこうして子供の欲求の変化に応じて、常に新しい漫画を描いて時流に乗ってきたというのだ。

この手塚の話は、昭和四三,四年ごろ聞いた話であるが、今でも基本的な事情は変わってはいないだろう。そのころから活躍していている水木しげる、故藤子不二雄、さいとう・たかをとか、描きつづける作家が何人もいるではないかと、反問されるかもしれないが、そういう人たちは、手塚と同様に時代の動きに対するジレンマを克服したか、大人向け漫画の役割を果たしているのであって、基本的状況は、手塚の時代と変わりはないはずだ。

手塚は続けて語る。

「子供マンガの世界では五年目ごとに読者である子供の気質、感覚の変化が来て、それに応じて漫画家の方にも新陳代謝が行われ、それまでの多くの作家が振るい落とされ、新しい作家が登場する。私は今まで何回もそういう変革期を乗り越えてきた。そういう時期は、何をしていいか、ジレンマに陥り苦しんだものである。」(前掲書)

その苦しみを乗り越えるために、若い後輩の時流に乗った作品を徹底的に研究し、今までの人気作品とどこが違うかを探求し、新しい人気マンガに負けない作風を作り出すことに必死に努力したのである。この場合後輩の人気漫画家は研究対象であるのみならず、克服すべき敵でさえあったのである。そしてまた学ぶべき師匠でもあったのだ。

手塚という作家はそういうことを恥ともしない、強靭な神経の持ち主であったのだ。

その研究対象の漫画が現代ものか、時代物か、SF的な未来ものか、など題材、表現法、その漫画の絵が描かれる一本一本の線の特徴、主人公のキャラクターの斬新生などなど、漫画が必要とする要素すべてを検討し、時流に乗った新しさの本質を掴もうとしたに違いない。

しかしそのような新時代の作家の描く作品を研究するだけで、ジレンマを克服するヒントや材料はつかめるとは限らない。自分に対する全然違う刺激が、有効に働く場合が多い。

では何をするのか。

彼は大人漫画を描くことも、そのジレンマを克服するチャンスにもなったことがあるという。

彼は例えば、次のように語っている。

「文藝春秋の漫画読本が発刊された昭和三十年ごろは、そのジレンマの時期であったが、そこに大人漫画の注文が来たので、一つには気分一新のために、大人漫画を描いたのだ。」(『現代漫画の50年』)

その作品は十頁のSFもの長編、「第三帝国の崩壊」という作品である。当時大人の漫画では一〇頁の漫画というと長編作品に属した。

昭和三〇年ごろは、一般のマスコミでは、、漫画ブームが招来したと騒がれ、その流れに乗って、横山隆一の発案で、文芸春秋の別冊として、「漫画読本」が発行された。その販売成績が良好だったために、月刊誌として発行されるに至ったのであった。

手塚は続けて言う。

「私は、これまでそういう変革期には、気分の転換を図るために、子供漫画と別なことやった。たとえばSF小説を書いたり(彼はSF作家クラブのメンバーでもあった)大人漫画を描いたり、アニメーションを始めたりして気分の転換を図り、この危機を乗り切った。昭和三〇年に大人漫画を描いたが、ふしぎと大人漫画を描き出すと、また新しい子供マンガ描きやすくなった。私にとって、大人漫画と子供漫画は、砂糖と塩のような関係であった。両方は全く異質なものであるが、片方をやりだすと、片方がほしくなる。両方が相乗効果を出すのだ。

子供漫画と大人漫画は異質だといったが、大人漫画は客観的に冷静にものみて、判断し、批判するという態度でないと書けない。大人漫画は描く対象に対して冷酷、ドライで、ある意味でそこにはペシミズム、ニヒリズムが流れている。子供漫画には、これらの大人漫画の要素はいっさいタブーである。

子供漫画では描く対象に主観的に飛び込んでいかないといけない。そこに夢があって、進歩的な情感がなければならない」(前掲書)

手塚は、そうして漫画家としての危機を乗り越えてきたのであるが、このように自分の危機を素直に語った手塚の胸の底の底には、自分の力に対する絶対の自信、信念があったように私には思えてならない。自分に時流の齎す、一時的な好、不調の波はあっても、漫画においては、自分には造物主のような力が潜在し、その働きで、現在の世界が要求する漫画を創造させ得るのだという、自負の念が潜在していたと思われる。実際彼に接していて、神のような創造力を感じさせられたことが、何回もあった。

彼がそうして作り出す世界は、場所としては、大は宇宙の果ての巨大な星群から、地球上の小さな虫や細菌の世界までが描く対象となり、描かれる時間としては、永劫の未来から、永遠の過去までさかのぼり、そこに生きとし生ける者の悲劇喜劇を、ペン一本で書き表していったのであった。まさに創造者であり、造物主であった。

そして、アニメーションという映像の世界においても、それを成し遂げようとしたのであった。

このような手塚の漫画活動に対して、彼の盟友、馬場のぼるはどんな漫画で、どのような世界を書き表そうとしたのか。そして漫画集団の親友、小島はいかなる深遠な笑いを描こうとしたのか、それは次回において、手塚の業績と比較しながら述べてみようと思う。

(つづく)

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