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ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 2 柴崎信三

〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

2〈象徴〉について

米国大使館の35分

昭和天皇とマッカーサー元帥との会見写真(1945年9月27日、米国大使館)

昭和天皇とマッカーサー元帥との会見写真(1945年9月27日、米国大使館)

余りにも知られつくした昭和天皇とマッカーサーの記念写真は、終戦の日からまだ40日余りしかたたない1945年9月27日に東京・赤坂の米国大使館で撮影された。一枚の写真が敗戦後の新しい日本のかたちを決定的なものにした。これは占領軍という、歴史を動かし、日本の姿を変えた為政者の大きな意思を体現した画像であるが、同時にこの画像を受け入れた国民と国際社会の眼差しによる、ある種の〈合意〉によって日本の戦後の(精神)を視覚化した、きわめて深い含意を持つ写真でもある。
撮影者はジターノ・フェイレイス。1904年、ニューヨーク生まれの米軍将校で、米国陸軍極東司令官として太平洋戦争の指揮にあたったダグラス・マッカーサーの専属写真家として従軍、レイテ上陸作戦などを取材した。終戦直後、連合国総司令官として日本へ赴任したマッカーサーとともに来日、1945年9月27日に米国大使館で行われた昭和天皇との会見の冒頭で記念写真を撮影した。引退後には、占領期の東京や横浜を撮影した写真集『マッカーサーの見た焼跡』を日本で刊行している。
さて、その写真を少し仔細に眺めてみたい。
モーニングに正装した昭和天皇はこの時44歳。身長が165㌢ほどで両手を側面へまっすぐに下げ、足元は踵をそろえて直立している。その身辺には敗戦からまだ一月余りという時点で、占領軍の頭目と初めてまみえる緊張に強張った空気が漂っている。傍らのマッカーサーは65歳だから、世代的には父と子ほどの隔たりがあるとはいえ、日米の指導者の公式な会見写真として、その寛いだ姿の対照はあまりにも際立っている。
マッカーサーの身長はおよそ180㌢で、天皇より顔一つ抜き出た長身はいかにも軽快な軍装で整えられ、もちろんネクタイもなく、襟元は自然に開かれている。後ろ手で両手を腰のポケットにあてがい、隣の天皇と50㌢ほどを隔てて立つ足は心持前後に開いて、ほとんどスナップ写真のポーズといってもいい。
一人はフィリピン米国極東陸軍司令官として、太平洋上の日本陸軍の進攻をバターンで迎撃して、壊滅に追い込んだ伝説の英雄。隣に立つもう一人は超越的な「現人神」として軍部の独走の下で日米開戦へ道を開き、やがて戦況の悪化でポツダム宣言の受諾による敗戦へ国民の運命を導いた、日本の若いカリスマである。そこには勝者と敗者、支配者と被支配者の露わな構図があっても、乗り込んだ占領軍がその敗戦国の当主としての天皇へ寄せる同情や敬意、民族の誇りへの眼差しはない。撮影者にシンボリックな演出がない即物的な写真であるだけに、モデルの〈無意識〉が戦後の日本と国際社会に効果的で大きな政治作用をもたらした、というべきかもしれない。
実は、フェイレイスが撮影したこの記念写真はほぼ同じポーズで三種類ある。1枚は会見の直後にメディアを通じて内外に流布された、この有名な写真である。公表されてこなかった残りの2枚は米国ヴァージニア州ノーフォークにあるマッカーサー記念館に保存されている。その1枚は裏に「アイ・クローズ」と書かれており、その通りマッカーサーがフラッシュに目が眩んで両目を閉じている。残りの一枚は「マウス・オープン」と裏書きされていて、こちらは昭和天皇がやや口を開いて、足も少し開いた姿勢になっている。いずれも撮影技術上の失敗からボツとなって未使用のままにされた写真である。
メディアに公表された写真は背景のトリミングが施されてわかりにくいが、元の写真を見ると背景には米国大使館の居室の二つの大きなフランス窓の前にカウチ(長椅子)が置かれ、その前の飾台には伊万里のような絵皿が数点置かれている。また右手には公表写真には映っていないクラシックな応接用の椅子や観葉植物が見える。35分間の歴史的な会見を包んだ空気が、こうした未使用の写真からリアルに浮かび上がってくる。
会見の終了後、撮影された3枚のうち失敗のない一枚が報道用としてGHQから内外のメディアに提供された。とはいえそれから二日間、この写真は〈勝者〉と〈敗者〉を絵にしたあからさまなその図像性によって、メディアの上で翻弄されることになる。
すなわち、当日のGHQの提供を受けて海外メディアがこの写真を掲載し、国内メディアも掲載へ踏み切るのだが、内務省は国民感情への影響を恐れて発行前にその阻止へ動くのである。しかし、占領統治者の圧倒的な力を背景にした連合国軍総司令部は「掲載命令」という強制力をもってこれを覆す。初期の占領統治下の息詰まる政治の駆け引きによって二転三転したあと、会見から二日を経た9月29日付の国内各新聞紙上で、この写真はようやく日本人の目に晒されるのである。

江藤淳は『閉ざされた言語空間 占領下の検閲と戦後日本』のなかで、この写真の公表を挟んだ数週間にかかわる、言論表現をめぐって繰り広げられたGHQの検閲や統制と日本政府やマスメディアとの葛藤について記している。
9月10日、連合軍最高司令官代行、ハロルド・フェア名の「新聞報道取締方針」で、日本政府に対し「報道機関が真実に合致せずまた公共の安寧を妨げるべきニュースを伝播することを禁止する所要命令を発出すべきこと」など、占領軍の強い統制を明示した。さら14日には同盟通信が英、仏、西、中国語で行っていた海外放送を「公共の安寧を妨げるニュースの伝播」を理由に即時中止の措置が取られた。
15日には民間検閲支隊長ドナルド・フーヴァーが同盟、NHKなどのメディアの代表と情報局総裁らを招致し、GHQの統制下に置かれている日本の言論表現にあっては、連合国軍と対等な関係で意見を述べるような自由な公表を認めない旨、声明を発表した。
さらにこの三日後、軽井沢に隠棲していたのちの首相、鳩山一郎が米国による広島・長崎への原爆投下を批判して「極力米人をして罹災地の惨状を視察せしめ、彼ら自身彼らの行為に対する報償の念と復興の責任とを自覚せしむること」を求める談話を掲載した朝日新聞に対し、二日間の発行停止の指令がフーヴァーによって発せられている。
占領開始から日の浅いこの時期、広島・長崎への米軍の原爆投下による非戦闘員の大量殺戮という非人道行為を問い、あるいは戦後進駐した米兵による日本人婦女子への非行を暴露するなど、国内メディアの占領軍に対する批判的な論調の広がりを危ぶんだGHQは、ただちに占領統治者の強権を発動して、マスメディアの報道に対する事前検閲や発行・公表の停止による厳しい言論統制に踏み切るのである。この間、報道の差し止めなどの措置は「朝日」のみならず、独占的に日本の占領統治情報を世界に伝えていたさきの同盟通信の外国語による海外向け短波放送への停止命令、占領軍兵士の日本人女性らに対する非行を暴いた「東洋経済新報」9月29日号の押収処分と、相次いだ。
「天皇・マッカーサー会見」の写真公表をめぐってGHQ、内務省、メディアの間に繰り広げられた三日にわたる「暗闘」には、初期占領体制下の勝者と敗者のこうした情報操作のせめぎ合いが背景にある。マッカーサーと並んだありのままの天皇の姿を国民に示すことは、戦前の神格化された天皇像を覆して民主化をすすめる占領統治者のGHQが、日本の国民世論の誘導へ向けて要請された、喫緊の重要なイメージの統治にほかならず、天皇の威信の失墜と国民心理への影響を恐れて掲載をためらう政府や国内メディアと真正面から対立するのは必然であった。
天皇・マッカーサー会談に先立つ二日前、天皇は米紙「ニューヨーク・タイムズ」の特派員、ロバート・クラックホーンとの会見に応じた。ここでは、戦争責任問題にからんで「日米開戦に当たり、真珠湾攻撃を開始するために行った東条英機による宣戦の詔書の扱いは陛下の意思であられたか」という問いに対し、天皇は「そうした意図はなかった」と答えている。これは国際社会で広がる天皇の戦争責任追及をかわすために、真珠湾への奇襲が「東条の独断」であったことを示す天皇のメッセージを米国世論に向けて発信する意図を受けた発言といわれる。25日付の同紙に「ヒロヒト、東条に責任を押し付ける」などと報じられたこの記事は、その後に天皇の免責ともに「象徴天皇制」への道を開くことで日本の戦後を主導した米国とGHQの企図の伏線とみることができよう。
内外に広がる天皇の戦争責任追及と戦後の天皇制のありかたをめぐる決断が、GHQの占領統治の大きな懸案であったから、天皇自らの発意によるとされる二日後の米国大使館におけるマッカーサーとの会見で撮影された二人の記念写真が、その後の占領体制下でどのような政治的文脈を形成していったかは、おのずから想像できる。
公表されたこの写真が日本国民にとって、勝者の威光と敗者の悲傷をそのまま図像としたものであり、それゆえに敗戦という現実を目の当たりに示す戦後の黙示録として国民に受け止められていったことは、改めて指摘するまでもない。
その意味でこれは紛れもない〈政治的写真〉なのであるが、その一方で〈無防備〉な図像がつくる新しい物語が「象徴天皇」という戦後日本の文化シンボルの形成へ向けて、国民の眼差しを統合していったこともまた事実なのである。撮影後、同じ部屋で行われた歴史的会見がもう一人の当事者であるマッカーサーの天皇と戦後日本に対する認識に決定的な影響を与えたという意味においても、これは日本人と米国社会の双方に深い暗喩を伴って二重の歴史の痕跡を残した写真というべきであろう。

1945年9月27日の午前10時から、米国大使館の応接室でおおむね35分間にわたって行われた会見は、冒頭でフェイレイスが記念撮影をしたあと、昭和天皇とマッカーサーの二人のほかは通訳の外務次官、岡村勝蔵だけが同席した。
その内容は今日に至っても公式に発表されていないが、後年マッカーサーが書いた回顧録や奥村が遺した手記、それらの伝聞のかたちで公にされた周辺の人々の談話などによって、虚実が入り組んだやりとりが伝えられている。
敗戦間もない日本で、「現人神」と怖れられる天皇を頂いた軍部の暴走によって破産に至った国家を、占領軍の総帥として根本的に改革しょうと乗り込んだマッカーサーが、その天皇本人と日本の統治について初めて直接会話を交わした。神秘のヴェールに覆われてきた天皇自身は国際社会の一部から「戦犯」として問われ、国内でも戦争責任をめぐる論議が広がっていた。密室での35分、その二人はそこで何を話したのか。

〈モーニングに縞のズボン、トップハットという姿で、裕仁天皇は御用車のダイムラーに宮内大臣と向かい合わせに乗って、大使館に到着した。私は占領当初から、天皇の扱いを粗末にしてはならないと命令し、君主にふさわしい、あらゆる礼遇をささげることを求めていた。私は丁重に出迎え、日露戦争終結の際、私は一度天皇の父君に拝謁したことがあるという思い出話をしてさしあげた〉(『マッカーサー大戦回顧録』津島一夫訳)

帰国して退役したマッカーサーが1964年に84歳で亡くなる前の3年間を費やしてまとめたこの回顧録は、会見の時点からの長い時間の経過に伴う事実の誤認や過去への美化などによる矛盾が多く、とくに9月27日の最初の会見での天皇の発言については、今日では歴史資料としての信頼性に多くの疑問が投げかけられている。
赤坂の米国大使館で行われたこの日の会見は、天皇が到着した午前10時に始まった。同道したのは宮内大臣の石渡荘太郎、侍従長の藤田尚徳、侍従の徳大寺実厚、侍医の村山浩一、行幸主務官の筧素彦、それに通訳の奥村である。
玄関で待ち受けたマッカーサーの軍事秘書を務める准将、ボナー・フェラーズと通訳の少佐、フォービアン・バワーズの案内で、一行は居室の入り口へ案内され、マッカーサーの出迎えを受けた。待ち構えるフェイレイスが部屋の中央で記念撮影すると扉は閉ざされ、暖炉の前のソファへ移動した二人と通訳の奥村の三者だけで会見が始まった。
「回顧録」のこの場面の記述には、マッカーサーの記憶違いと思われる箇所が多い。

〈私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ〉

天皇の名前を筆頭に記載した戦犯リストが連合国から提出されたことはなかったし、天皇が訴追されて裁かれればゲリラ戦が起こりうるから、その時は百万の将兵が必要になるというワシントン(米連邦政府)への警告をマッカーサーが送ったのは翌年一月である。
最も大きな疑問点は、戦争責任についての天皇自身の言葉である。

〈「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」/私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである〉

この天皇の「全責任を負う」という発言は、晩年のマッカーサーの感傷と記憶の誇張による「虚構」とする見方が、いまは有力である。
後年、作家の児島襄が月刊『文藝春秋』誌上(1975年11月号)で発表した「天皇とアメリカと太平洋戦争」は、ただ一人立ち会った通訳の奥村勝蔵の手記によっており、今日もっとも正確に両者の会話を再現したものとみられている。

〈元帥ノ案内ニテ居室中央立御。元帥其ノ向ツテ左側ニ立テバ、米国軍写真師ハ写真三葉ヲ謹写ス。/更に元帥ノ案内ニテ「ファイア・プレイス」ニ向ツテ左ノ椅子ニ陛下御着アリ、元帥ハ右側ノ同様ナル椅子ニ着席ス〉

マッカーサーは自由な態度で「実際写真屋というのは妙なもので、バチバチ撮りますが、一枚か二枚しか出てきません」と冗談をかわす余裕をのぞかせたあと、冒頭約20分間にわたってこの戦争と日本の再建についての考えを論じた。これを受けて天皇は言った。

〈コノ戦争ニツイテハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ、戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ、自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス〉

通訳の立場で詳細にこの会見を記録した奥村勝蔵の手記に、天皇の「全責任」云々の発言のくだりはない。したがって戦争責任についての「処罰も覚悟している」と天皇がこの席で述べたという後年のマッカーサー周辺の記述を裏付ける材料はない。
ただこの歴史的会見は天皇の戦争責任と戦後の天皇制の存続が大きな争点として浮かび上がっていた時期と重なり、日米開戦と真珠湾攻撃などへの関与の責任を戦犯として収監中の前首相、東条英機にすべて負わせて天皇を救済するというシナリオは、東京裁判を控えた政府や天皇周辺でも検討されていた。この文脈の下で、天皇が自らの戦争責任についてGHQとの政治的な駆け引きのなかで何らかの意思表明を試みたことは想像できるし、その言葉から天皇の高潔無私な人格にマッカーサーが感銘を受けて、戦争責任の免責と「象徴天皇制」の成立に少なくない影響をもたらしたことも、ありえた展開であろう。
その朝、米国大使館の玄関で天皇を出迎えなかったマッカーサーは、35分間の会見を終えると玄関先まで伴って御用車に乗りこむ天皇を見送った。回顧録のなかで天皇の戦争責任についての発言に「虚構」が入り込んだのは、マッカーサーがその会見で天皇から受け止めた強い印象に伴う、ある種の心の飛躍があったからではなかったか。そしてこうした会見の空気を映した冒頭の記念写真は、日本人のみならずマッカーサーと米国世論に対しても歴史の神話作用をもたらしたというべきであろう。

そこには一人の隠れた演出者が浮かび上がる。会見の朝、大使館の玄関で天皇一行を出迎えたマッカーサーの軍事秘書を務める准将、ボナー・フェラーズである。
戦前に二度も来日したことがある知日派の軍人で、ラフカディオ・ハーンの著作などを通じて深く日本文化に馴染んだ人物である。戦争中は対日心理作戦を指揮し、終戦直後にGHQの要員となってマッカーサーの片腕として来日したフェラーズは、すぐに旧知のクリスチャン教育者で恵泉女学園創立者、河井道を訪ねるなどして天皇の戦争責任と天皇制のあり方を問い、連夜にわたって最高司令官に提言を重ねた。その集成が会見直後の10月2日にマッカーサーにあてて提出された「フェラーズ覚書」である。

〈天皇に対する日本国民の態度は概して理解されていない。キリスト教徒とは異なり、日本国民は、魂を通わせる神をもっていない。彼らの天皇は、祖先の美徳を伝える民族の生ける象徴である。天皇は過ちも不正も犯すはずのない国家精神の化身である。(略)いかなる国の国民であろうと、その政府をみずから選択する固有の権利をもっているということは、米国人の基本的観念である。日本国民は、かりに彼らがそのような機会を与えられるとすれば、象徴的国家元首として天皇を選ぶであろう〉

〈大衆は、裕仁に対して格別の敬慕の念を抱いている。彼らは、天皇みずから直接国民に語りかけることによって、天皇はかつて例がないほど彼らにとって身近になると感じている。和を求める詔書は、彼らの心を喜びで満たした。彼らは天皇がけっして傀儡などではないことを知っている。また、天皇を存置しても、彼らが権利として選びうる最も自由主義的な政府の樹立を妨げることはないと考えている〉

まことに「文学的」と呼んでもいい、きわだった占領文書である。
「フェラーズは頭のいい、歯切れのいいがっちりした、そしてほんの一寸ばかりダンディな、国際人的なところを持った五十代の男、全身ぴちぴちした弾力性にはずんでいる」。当時文部省でGHQとの連絡にあたった精神医学者の神谷美恵子はそう回想する。
フェラーズの覚書が提出されてから4か月後の1946年1月25日、マッカーサーは本国政府の米国陸軍参謀総長にあてて天皇の処遇に関する最終回答を送った。

〈過去十年間に、程度はさまざまであるにせよ、天皇が日本帝国の政治上の諸決定の関与したことを示す同人の正確な行動については、明白確実な証拠は何も発見されていない。可能なかぎり徹底的に調査を行った結果、終戦時までの天皇の国事へのかかわり方は、大部分が受動的なものであり、輔弼者の進言に機械的に応じるだけのものであったという、確かな印象を得ている〉

かくして天皇の免責と新憲法のもとで象徴天皇制への移行の条件が整った。
2月、神奈川県を皮切りに天皇の戦後地方巡幸がはじまった。5月に開廷した東京裁判では、6月に入って首席検事のジョセフ・キーナンが「天皇訴追せず」を正式に言明した。
昭和天皇の侍従として終生仕えた入江相政のその頃の日記に、こんなくだりがある。

〈侍従長、次長と車で侍従長の官舎に行く。七時前にフェラーズ、その女秘書メッカ、寺崎(英成、侍従)氏、同夫人、同令嬢マリ子さん来着、牛鍋で会が始まる。はじめの中は言葉の関係でまるで御通夜のやうなものであったが、段々えらい騒ぎになり、終は脱兎の如き勢、和洋のダンスが始まったりする。終にジョーといふ運転手まで来て、実に愉快であった〉(1946年6月7日付)

隠す事の出来ない喜びと安堵が行間から伝わる。
象徴天皇制への移行が固まったのである。
連合国軍総司令官として日本の占領統治にあたったマッカーサーは1950年、朝鮮戦争を指揮する国連軍総司令官に転じたが、作戦をめぐって大統領のトルーマンと対立して解任され、帰国後は失意の晩年を過ごした。
老いた英雄にとって遠ざかる昭和天皇との35分間への回想は、一枚の記念写真の向こうに懐かしくも美しく呼び起されていったのであろう。

=この項終わり
(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

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