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池内 紀の旅みやげ (7) 謎の洋館(埼玉県深谷)

埼玉県深谷市の市中にステキな洋館がある。大正末年から昭和初頭に建てられたのではあるまいか。当時、世界的に流行していた「アール・デコ」様式で統一されていて、緑がかった屋根瓦、壁は深い黄色、二階に屋根裏部屋のつくスタイル。窓わくを中心にすっきりとした意匠のせいか、高くのび上がって見える。

謎の洋館・埼玉県深谷市
謎の洋館・埼玉県深谷市

両開きの大門を立派な背の高い塀がとりまき、純和風の玄関と母屋にアール・デコの洋館がくっついているわけだ。建て増しする際、西洋スタイルを採用した。ひところまで古風な家の玄関わきに「応接間」と称する洋間をくっつけたのを見かけたものだが、そのタイプの超大物と考えていいのだろう。建て増し分が立派すぎて母屋を圧倒する気配である。まわりに背高ノッポのヤシの木が数本、シャレた意匠のお守り役のように立っている。

 

深谷市は「渋沢栄一の生地」をキャッチフレーズにしている。明治・大正・昭和の三代にわたる大実業家であって、みずから起こしたり名をつらねた事業が五〇〇あまり。よほど鋭い時代センスと判断力の持主だったのだろう、金融、運輸、生産、流通、どの分野であれ、ことごとくといっていいほど成功させた。七十代半ばで実業から身を引き、晩年の二十年近くは社会事業に力を入れた。教育、福祉、病院、老人施設、こちらでもおそろしく先見性に富んでいた。号を「青淵」といって、文雅の才もあった。財界のボスになって権力を振いたがる連中とは、まるきりちがうタイプだった。

もとより渋沢栄一その人の努力と才覚がやりとげたところだが、そんな人物を生み出す土地柄があってのことかもしれない。地図を見るとわかるとおり、深谷市は利根川と荒川にはさまれている。二つの暴れ川が生み出した沖積地であって、米づくりには適していない。産業はもっぱら繭(まゆ)と野菜と藍(あい)だった。渋沢栄一の生家も藍を家業とした。繭と藍は毎年、相場が激しく変動する。世の動きと市場の動向を注意深く見ていなくてはならない。深谷はまた中山道の宿場町であって、旅人とともに最新の情報が運ばれてきた。

「深谷ネギ」をご存知だろう。江戸の昔に始まり、現在もなおネギのブランド物であって、一流店の鍋物には、白くて長くてやわらかな甘い味の深谷ネギが欠かせない。

江戸が消費都市として成熟するのを見てとって、深谷の農家が栽培を特化した。ネギだけでなく、ヤマトイモ、ホウレンソウも深谷産となると市場価値がグンと高い。いずれも食物であると同時に薬用の効果が言われてきた。健康食品こそ都市住人の求めるもの。渋沢栄一の生地では、農業人もまた豊かな時代のセンスと判断力をそなえている。

それは行政にも及んでいるようで、JR深谷駅に降り立った人は目を丸くするだろう。ホームの上に赤レンガの東京駅があるのだ。本家東京駅は大がかりな修復中で足場の下に隠れているが、こちらでは威風堂々と現役のおつとめを果たしている。

単にモノマネのミニ東京駅ではないのである。渋沢栄一は故郷の振興をはかってレンガ工場を深谷につくった。近代日本の建築材として大きく伸びる将来を見こしてだろう。関東大震災でレンガ造りの弱点がわかり、以後は下火だったが、強力な接着剤の登場とともにレンガ人気が復活した。近年、深谷レンガは増産につぐ増産をつづけている。行政側もあと押しを買って出て、新駅舎をレンガ造りにした。レンガ建築のサンプルを兼ねている。世にある商品見本のなかでも最大クラスではなかろうか。加えて「リトル東京駅」とくると、宣伝効果もバツグンである。

はじめにもどって市中のステキな洋館であるが、何ものの手になるのか? それがよくわからない。ときおり高崎線を途中下車して、リトル東京駅経由で見物にくるのだが、いつも大門が閉じられている。門には個人ではなく会社名をしるした標識があって、建物全体がその所有になるようだ。

だが、あきらかに個人の私邸としてつくられた。代がわりするうちに今のかたちになったのだろう。アール・デコ様式のうちでも、こころなしかドイツ流の気配がする。

ドイツの建築家ブルーノ・タウトはナチス・ドイツを逃れ、シベリア鉄道経由で日本に来た。数年後にインドに去るまで、高崎市に住んでいた。高崎と深谷とは、隣り町のように近いのだ。深谷の小型渋沢のような資産家が増築するにあたり、タウト先生に声をかけたのではあるまいか。純日本家屋とアール・デコの対称の奇抜さに苦笑しながら、滞在費を稼ぐためにもブルーノ・タウトが設計した。

──などと、塀ごしに見上げながら想像している。正体不明の建築というのも、これはこれでおもしろいものである。

【今回のアクセス:深谷駅から徒歩約十分。旧中山道沿いの商店街から少し離れた一角にある。】

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