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書斎の漂着本(67)蚤野久蔵 恐るべき空白

「私の好きな探検記ベスト10」などという特集に必ず挙げられるのがオーストラリア縦断遠征隊の悲劇を描いたアラン・ムーアヘッドの『恐るべき空白』である。紹介するのは昭和44年に初の全訳本として早川書房から出版された初版本(尾塩 尚訳)で、「死のオーストラリア縦断」の副題がついている。その後に出た文庫本も持っていたがカヤックツアーでうっかり濡らしてしまい、廃棄処分=焚火の火つけ=にした記憶がある。湿っていたから煙がやけに目にしみた。

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ムーアヘッドは1910年オーストラリアのメルボルン生まれ。大学卒業後に地元紙の記者を経てイギリスに渡り、デイリー・エクスプレス紙の特派員としてスペイン戦争などを取材した。第二次世界大戦中は連合軍の従軍記者として報道した北アフリカ戦線の記事などで世界的ジャーナリストと評価された。戦後は執筆に専念し、アフリカ探検記の『白ナイル』、『青ナイル』二部作に次いで手がけたのが『恐るべき空白』である。取材のわずか百年前に故国オーストラリアで起きたヴィクトリア探検隊の「事件」を巡って「彼らはもたらした科学的成果よりも事件の悲劇性により有名になっただけで探検家と呼ぶには値しない」という<悪評価の通説>を洗い直した。幸いなことに探検隊に関する諸記録はムーアヘッドの故郷メルボルンのヴィクトリア州立図書館に保管されている。館内に一室が提供され、膨大な資料と格闘し、実際に現地を取材できたのも<地の利>だった。

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1860年代になるとオーストラリア政府は相次いで探検隊を「奥地」に派遣した。オーストラリア大陸の南岸はようやく明らかにされてはいたが内陸部や北部は依然として不明で、正確な地図さえなく、内陸には広大な海が広がるとも言われていた。解明には実際に大陸を縦断することが急務で、その口火を切ったのがヴィクトリア探検隊だった。この壮挙に対し、政府は6千ポンドを支出、寄付を加えると9千ポンドにものぼった。単純レートで約9千万円だが現在の価値からすれば数十倍、いやそれ以上になるだろう。『恐るべき空白』は「ここは恐らく、どこよりも、人間が新たな歩みを始める可能性を秘めたところであった。大地には絶対に手が触れられておらず、未知そのものであった」と始まる。この大陸では太古からそのままの大陸のほんの一部、海岸線が地図に書き込まれただけで内陸に深く入り込もうという冒険は一度も果たされなかった。内陸に海があるはずだとする考えも、実は発見された限りの山々が東海岸沿いに存在し、この山中に発した三つの大河が西北の内陸に向かっている事実からきていた。そして「広大にして人跡未踏の地域はヨーロッパの半ば以上にあたり、これこそ“恐るべき空白”だったのである」と第一章を終わる。

ヴィクトリア探検隊のあらましを紹介しよう。隊長に選ばれたのは軍人出身で地区警察警視の前歴を持つ39歳のアイルランド人、ロバート・オハラ・バーク(以下、バーク)、他に幹部隊員としてラクダの扱いに詳しいイギリス人のランデルス、測量技師で同じくウィルス、植物学者兼医師のドイツ人ベックラー、博物学担当には同じくベッカーが決まった。バーク自身も応募した700人以上の人物ひとりひとりと面接を重ね、隊員を選んだ。副隊長にはランデルス、次席副隊長にウィリスが就任した。隊員にはインドから購入した20数頭のラクダを世話する3人のインド兵までいた。探検は一年から一年半に及ぶものと予想されたから膨大な機材や食糧が準備された。例えば革製の長靴や馬具類を作るために刑務所の囚人たちまでが駆り出された。河川に浮かべる新型の船、兵器はコルト式連発銃、二重銃身銃、ライフル銃など計38挺、のろし玉10本など。一般機材ではラクダ用の靴95セット、釣り糸4ダース、望遠鏡10ダース、テント12張り、キャンプ用ベッド20台、日除け帽、双眼鏡2組、手術用具数箱、原住民に配る大量のビーズ、図書類、壊血病予防用のライムジュース8壜、ブランデー4ガロン、ラム酒60ガロンはラクダ用で、餌にラム酒を混ぜれば「万事首尾よく行く」と考えられていた。隊員たちの食糧は乾燥牛肉、肉入りビスケット、貯蔵用野菜、小麦粉、ショウガ、干しリンゴなどが用意され、総重量は21トンにも上ったから輸送用に23頭の馬が追加された。潤沢な資金のおかげで、過去オーストラリアで組織されたなかでは「最も入念な、最も素晴らしい装備のほどこされた探検隊」という前評判だった。

1860年8月19日、メルボルン市中心部にあるロイヤル・パークは早朝から群衆で埋まった。市長主催のセレモニーに続き出発の予定時間は午後1時とされていたから市民だけでなく何十キロも先の開拓地から馬車を連ねて見物にやってくる人たちでごった返し、市の一切の業務は探検隊の出発を見送るために中断された。ラクダ1頭分の積み荷が336ポンド(約400キロ)にもなることに「重すぎる」という異論が出て、急遽、余分な荷馬車が用意された。暴れん坊のラクダが綱を切って逃げ出し、制止しようとした警官が転倒して失笑をかう一幕もあった。ラクダは群衆の中をあわてふためいて逃げ回り、“砂漠の船”はなんと早いのかと賞賛された。探検隊が隊列を組んだのが、正確には4時15分前。人込みの中に一本の通路が開かれ、その間に隊列が並んだ。最前列は円錐形の黒帽子、ブルーの上着に赤シャツ姿のバーク隊長で、市長が挨拶で「私は君を引きとめまい。ここに集まった素晴らしい人々、かつまた移民一般に代わって、私は君に捧げる。幸いあれ!」。拍手がようやく鳴り止むとバーク隊長は脱帽して全群衆に聞こえるような澄み渡る真剣な声で「市長閣下、私自身および探検隊を代表して、心からのお礼を申し述べさせていただきます。いまだかって、このように好意あふれる雰囲気のもとに出発できた探検隊はありません。すべての皆さんが、このうえなく温かく事を運んで下さいました。今度はわれわれの番であります。皆さんがわれわれに可能だと示された事実を、完全に正当化しなければ、決して全力をつくしたことにはならないでしょう」と述べると会場は再び大きな拍手と歓声に包まれた。

探検隊はようやく動き出した。先頭はラクダに乗った隊長、副隊長ランデルスが続く。ラクダは全部で27頭、借りものも含め、山と荷物を積んだ馬車がのろのろと進み、最後尾はラクダに乗ったインド兵だった。これはムーアヘッドが籍を置いていたメルボルン・ヘラルド紙が面白おかしく伝えた紙面からだ。オーストラリア中の新聞は隊の動静を連日伝えたが動物(ラクダと馬)も馬車もあまりに荷を積み過ぎていた。数日のうちに荷馬車の何台もが壊れ、回教徒のインド兵の一人は準備された食糧が宗教上の理由で食べられないと泣きながら徒歩でメルボルンへ帰って行った。おりしも南半球は冬の季節、降り続く雨が濁流となって悪路を削り、荷車を立ち往生させた。何度かの渡河が続き、先発隊と荷馬車隊との間隔は十数キロにも広がった。行く先々で入植者の注目を浴びた隊のラクダはよく暴れ、時には脱走して捕まえるのに一苦労した。コックの男が酔っ払って迷惑をかけて解雇され、アメリカ人の職工頭も辞職した。頭数の減少で、それでなくても毎日、荷物の上げ下ろしは大変だったのが幹部といえども手伝うことになったから隊員たちは隊長のバーク派と副隊長のランデルスら年輩派に分裂した。仕方なくバークは砂糖の大半、ライムジュースとラム酒すべて、余分なライフル銃、テントなどを置いていくことにした。

ようやく10月に出発地メルボルンから約650キロの前哨基地メニンディーに到着した時点でさらにランデルスとベッカーが辞めた。測量技師のウィルスが副隊長に昇格、この地で羊牧場の職人3人が新たに加わったことで隊員は17人になった。ここから先はまったくの未開地で約500キロ北のクーパーズ・クリークを目ざす。バークは探検隊を二つに分け、自身とウィリスら8人の先発隊には元気な16頭のラクダと15頭の馬をあてがった。ランデルスに代わり彼がアフガニスタンのラクダ市場で出会ったアイルランド人のジョン・キングが「ラクダ役」に抜擢された。残りの隊員は病気になった動物を介護し、基地が完成すれば後続隊として追いかけることになった。出発は10月9日、身軽になった先発隊は未踏の大地へ踏み出したがそこは原住民の「聖域」そのものだった。以後は襲撃されないまでも常に付きまとわれることになる。

12月初め、バークたちはクーパーズ・クリークに達し、5キロほど下流に理想的なキャンプ地を見つけた。川の水が大きく渦を巻き、生い繁った木々が緑陰を作る。多種多様の鳥類が何千羽も集まりクリークでは二枚貝の他に魚も捕れた。彼らはこの場所をデポ(=貯蔵所)LXVと名付けた。LXVはローマ数字で65番目という意味で、65番目のキャンプ地をさす。大きなユーカリの幹に後続隊にもわかるように数字を刻んだ。この時点では食料はまだ十分あり、バークは隊をさらに分けて大陸の北岸にあるカーペンタリア湾を<突撃>することに決定した。しゃにむに目的地に向かうのは軍隊では当たり前だったからの判断だった。前進隊はバーク隊長、ウィリス副隊長、ラクダ役のキングに元船乗りのグレイの4人で構成され、3か月分の食料とラクダ6頭と馬1頭が割り振られた。残留隊も全員が参加することを望んだがバークは「必ず戻ってくるさ。万一、2、3カ月しても戻らなかったら前哨基地のメニンディーに戻っておいてくれ」と言い残して12月16日朝に出発した。季節は危険な夏に差しかかっていた。

デポLXVとカーペンタリア湾の距離は約1,200キロある。彼らはほぼ順調に湾の入江に広がるマングローブ帯に辿りついた。翌年2月のことだ。ただし海原は見えなかったようで食料も少なくなったため帰りを急ぐことになる。わずか1日休んだだけで13日出発、日中はムッとする熱気、夕刻には必ず激しいスコールに見舞われた。ラクダや馬は病み、同じように隊員たちにも疲労が重なる。あるいは壊血病の症状だったのか、バークは記録を残さなかったし、ウィリスにしてもメモを取るのさえ苦しかった。4月17日、衰弱していたグレイが死んだ。埋葬が済むと70マイル(110キロ)先のデポ地を目ざした。夜になっても歩き続け、出発から4カ月後、ようやく21日の夜になってデポLXVに到着したが、そこには誰もいなかった。ユーカリの木に残された伝言はこの日、朝に残留隊が出発したとあった。食料は残されていたが「非常に恵まれた条件の6頭のラクダと12頭の馬を持っている」と書き残した彼らにはもう追いつくことはできそうもなかったから、体力の回復を待って別のルートを模索することになる。

「私自身、およびウィルス、キングからなるカーペンタリア湾からの帰還隊は、昨夜、当地に到着した。(中略)デポ隊が同日、わずかの差で出発したことを知る。当地の隊がすでに去ったことを知り、いたく失望した。 隊長R・オハラ・バーク 1861年4月22日 クーパーズ・クリーク、デポLXVにて」

下は画家のジョン・ロングスタッツ卿が描いた「デポLXVの悲劇」である。茫然と佇むバーク、悲嘆にくれるウィリス、横たわるキング。

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このあと彼らに何が起こったのかは9月15日に捜索隊が発見した一人の人物が語る。

「一体全体、お前は何者だ?」
「私はキングだ」
「キング?」
「そうだ。探検隊最後の人間だ」
「何、バーク隊のか?」
「そうだ」
「彼(バーク)はどこにいる。そしてウィリスは?」
「死んだ――大分前に二人とも死んだ」

生きてメルボルンに帰着したジョン・キングは行く先々で大変な歓迎を受けた。彼についてメルボルン・ヘラルド紙は「ダンテのいう<地獄をさまよい歩いた男>の再来と見るべきであろう」と書いた。当初からの隊員や引き揚げてしまった残留隊員たちは長く続いた査問委員会で証言を求められたが結局当たり障りのない結論に終った。クーパーズ・クリーク周辺にあった二人の遺骨は掘り出され、国を挙げての盛大な葬儀が1863年1月21日に営まれた。

ムーアヘッドは「結局、1日の差がすべてを無にしたのだ。しかしこれは、運命づけられた、竜頭蛇尾に終わった物語であったようだ。彼らが運よくデポに帰還することに成功していたら、われわれがこんなにも彼らに関心を寄せてはいなかったろうと考えるのはいささか哀れを誘う。あの悲劇がなかったら彼らはむしろもっとおぼろげな人物像だったかもしれない。だがこれによって、彼らは別の一段と高い位置に、いうなれば神の加護を得たともいえるような所まで高められた。そして、おそらく彼らにとっては、それが恐るべき空白の征服よりよほど重要だったのであろう」と書く。

残された事実を積み重ねたムーアヘッドは探検家たちの魂を見事なレクイエム(=鎮魂曲)にまで高めようとした。これこそが不朽の探検記といわれ続ける秘密かもしれない。

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