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“5月15日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1932=昭和7年  武装した海軍将校らに犬養首相が暗殺された「5.15事件」が起きた。

初夏を思わせる日差しと暑さだった日曜日の帝都が夕闇に包まれようとしていた夕刻から7時過ぎにかけて事件が勃発した。海軍将校や陸軍士官候補生、農村青年らの「決死隊」約30名が、首相官邸をはじめ政友会本部、警視庁などを襲撃して犬養首相を射殺し警護の警官に重傷を負わせた。

午後5時半すぎ首相官邸に海軍中尉の古賀清志、三上卓ら9名が円タク2台で乗りつけた。玄関で警備の警官を拳銃で撃つと、首相が息子夫婦や孫らと夕食中の食堂に押し入った。首相は将校らに「物事は話せばわかる。あちらへ行こう」と先に立って応接間へ向かうとイスにどっかり腰をおろした。卓上のタバコ入れから1本を取り出しマッチをすりながら「まあ落ち着きなさい、君らも靴を脱いだらどうだ」とギロリとにらみつけた。その途端「問答無用!」と言うが早いか将校のひとりの拳銃が火を吹き弾が首相の腹部に命中した。続けて頭部に1発、がっくり崩れた首相の右手にはさんだタバコは見る間に血に染まった。さらに天井に向けて1発、銃声を聞き木刀を持って駆け付けた別の警官の太ももを撃って裏口から逃走した。この間わずか10分足らずだった。応接間に入った家人に首相は「あの者どもをもう一度連れてこい。よく話してやるから」とはっきりした口調で話したが出血は止まらず次第に衰弱して深夜11時26分に死亡した。78歳だった。

当時は世界恐慌に端を発した大不況により企業の倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。前年に関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府は収拾できず実質的に黙認状態だった。犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に2月の総選挙で大勝をおさめて誕生した。ところが前政権(若槻内閣)が結んだロンドンでの海軍軍縮条約を新政権は不平等のまま棚上げていると強い不満が海軍を中心とする軍部にはあった。中国戦線で政権攻撃の急先鋒だった海軍将校の藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して戦死したことも背景にあったとされる。

襲撃計画を立案して現場指揮をしたのは藤井とは同志的な関係を持っていた古賀で、血盟団事件につづく<昭和維新第二弾>として決行された。古賀は維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、陸軍士官候補生や農村青年らを巻き込み思想家・大川周明らからは資金と拳銃をもらい受けた。計画ではまず日没を期して別働隊の「農民決死隊」が東京近辺の変電所数ヶ所を襲撃し、東京を暗黒化することで混乱させ戒厳令を出さざるを得ない状況に陥れる。その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行うというものだった。

実際に首相官邸以外にも、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などを手榴弾で襲撃されたがこちらの被害は軽微で犯人らは事件後に自首した。「憲政の神様」と言われた犬養の死で8年間続いた政党内閣は幕を閉じた。

危なかったといえばちょうど来日していた「世界の喜劇王」のチャールズ・チャップリンだ。首相官邸でこの日に歓迎パーティーが開かれる予定が中止になり、相撲見物に出かけていた。襲撃計画には「アメリカの人気者である彼を殺せば対米戦争が起こせる」と考えられていたとされるが直前のスケジュール変更で難を逃れた。チャップリンは後年、自分が狙われなかったのはアメリカ人ではなくイギリス人だったからではないかと語った。

*1974=昭和49年  日本初のコンビニエンスストア「セブン-イレブン」が誕生した。

堅くいえば「中小企業の構造不況にシステムで取り組む」を旗印に米国のサウスランド社の45年に及ぶノウハウを導入した。営業時間が午前7時から午後11時までだったのでその名がついたと覚えたものだ。第1号店は東京・江東区の豊洲店だったが今や世界中に店舗を展開している。2011=平成23年1月で4万店を超え世界最大の店舗数を誇る。

もちろん営業時間も年中無休の24時間営業になって久しいが豊洲店も健在という。1991=平成3年には経営に行き詰ったサウスランド社を子会社化して建て直したことで話題になったがいまやその名の銀行まである。海外旅行好きの友人は「外国の街角で店舗を見つけたら必ず利用する。なんか落ち着くから」という。そんなものですか。

*1926=大正15年  大阪のデパート、三越と大丸が「土足入場」に踏み切った。

それまではどこのデパートも売り場の通路一面にじゅうたんが敷かれており、草履や下駄の客は入り口で脱いで下足札をもらう寄席などと同じ方式だった。商品が土埃で汚れるのを嫌った呉服店時代のなごりともいわれるが、土埃を心配したのには道路事情もあった。現在のように舗装がなかった時代、街中を歩いていても草履や靴に泥がつくのはしょっちゅうだったから。

両店は「御履物のままでお買物!!」と新聞に広告を打ったのが人気を呼んで来店客が3倍に増え、売り上げも倍増した。そうなると土足入場を見学にくる同業者も相次ぎ、この方式はまたたくうちに大阪の全デパートに広がり、東京や横浜、名古屋などのデパートにも取り入れられた。デパート大衆化のひとつの象徴にもなりました。

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