1. HOME
  2. ブログ
  3. “2月13日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“2月13日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1875=明治8年  平民も必ず苗=名字をつけるようにという布告が出された。

太政官布告第22号=「平民苗字必称義務令」という。それまで武士や商人は苗字を名乗っていたが<しもじも>は大いにあわてた。集落全部に同じ苗字を付けた例もあるがそうなると名前でしか区別できないからややこしい。ならば、と上林・中林・下林、木を増やして上森・中森・下森、田んぼで上田・中田・下田、畑で上畑・中畑・下畑、持っている田の広さで一反田・ニ反田・三反田・・・五反田・六反田、そんな家はないだろうとこのくらいでオシマイ。付けようがなくて寺の和尚さんや神主さん、村のもの知りに頼んだりしたが頼まれたほうも面倒だったのか煎茶の銘柄を拝借して青柳・喜撰・宇治や徳川四天王の酒井・榊原・井伊・本多を連発した。

シャレ好きが小鳥遊(鷹無し=たかなし)や四月朔日(暖かくなり着物の綿を抜く=わたぬき)八月一日(稲の穂を摘む=ほづみ)などの珍名を考えたか。全国に珍名は山ほどあるが宇宙、流星、太陽から醤油、味噌、林檎、蜜柑、煙草、白髪があれば毛穴や鼻毛、髭、熊本には禿さんも多い。まだある。鉄砲、時計、縫針、釣竿、相撲、洪水、浮気(うき)、馬鹿(うましか)、珍名そのものの珍名(ちんな)まであるのは失礼ながら面白い。珍名の方はそれなりにご苦労もあろうがこの日は「名字の日」、こちらは「名字」を使う。

*1840=天保11年  日本資本主義の父・渋沢栄一が埼玉県深谷に生まれた。

渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を中心に米、麦、野菜を生産する豪農だった。原料の買い入れと販売を担うため常に算盤をはじく経営の才覚が求められた。渋沢も父に連れられて藍を売り歩き、藍葉を仕入れるようになり14歳でこれを一人でこなせるようになった。この経験がのちにヨーロッパで経済の仕組みなどを広く吸収する素地になった。

19歳で結婚、22歳で江戸に出て北辰一刀流のお玉ヶ池千葉道場に入門した。剣道修業の傍ら勤王志士と交友を結び、京都に上るが公武合体派が尊皇攘夷派を追い出した8月18日の政変の後だったため活動に行き詰まり徳川慶喜に仕えた。慶喜が将軍となったのに伴い幕臣としてパリで行われた万国博覧会に名代として出席した慶喜の弟・徳川昭武の随員として渡航した。その後、万博視察だけでなく昭武のヨーロッパ各国の視察に同行して先進産業や軍備に対する見聞を広めた。

この間に大政奉還が起きる。帰国後はフランスで学んだ株式会社制度を実践するため静岡に商法会社を設立したが大隈重信に説得されて大蔵省に入省した。退官後は第一国立銀行、手形交換所、商工会議所を設立。製紙、紡織、瓦斯産業を興し現代企業社会の基盤を作り上げた。約500の営利事業、約600の非営利事業を手がけたというのはすごい。

いささか駆け足で紹介したが実業家以外にも多くの社会活動を行った。東京慈恵会、日本赤十字社の設立に携わり聖路加国際病院初代理事長、関東大震災後の復興にも奔走した。教育分野では商法講習所(現・一橋大学)大倉商業学校(現・東京経済大学)二松學舎(現・二松學舎大学)国士舘、日本女子大学、同志社大学など設立に力を貸し、寄付金の取りまとめに関わった。

変わったところでは日本国際児童親善会を設立して日本人形とアメリカの人形を交換して交流を深めた。野口雨情の詩『青い眼の人形』に本居長世が作曲して歌われた童謡に出てくる人形だが詩にあるようなセルロイド素材ではなく多くはビスクドール(素焼き)に色付けしてあった。

*1591=天正19年  太閤秀吉の怒りにふれた千利休が京都から追放された。

なぜ秀吉の怒りにふれたのか、晩年の千利休には多くの謎がある。<罪状>とされたのは大徳寺山門の楼上に自らの等身大の木造を安置したことが僭越な行為とされた。茶器の目利きや売買に関する疑惑があった。石田三成に憎まれたことで政権内部の派閥抗争に巻き込まれたなどがあるが真相は不明である。

聚楽屋敷に謹慎中だった千利休に秀吉から堺へ下るようにとの命令が届いたのがこの日だった。覚悟を決めていた利休はその夜のうちに淀から舟に乗って淀川を下った。船着き場で密かに見送る二人の武士、後に「利休七哲」に数えられる弟子の古田織部と細川三斎だった。この時点では誰もが京都からの追放処分だけで済むものと思っていた。

一方では秀吉に詫びを入れるように勧める助言も多かったとされる。あるいは秀吉もそれを待っていたのかも知れないが利休は「たとえ御誅伐(ちゅうばつ)に逢い候とも是非なく候」と意地を貫いた。再び京都に呼び戻された利休は28日、聚楽屋敷で切腹した。つまり死を賜ったのである。

「茶の湯とはただ湯をわかし茶を点(た)てて呑むばかりなり」

<美の殉教者・利休>は最期まで何も残さずに命を終えた。

関連記事