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新・気まぐれ読書日記 (15) 石山文也 犬の伊勢参り

この読書日記を欠かさず読んでくれている友人から「たまには文庫とか新書とか紹介してよ」という声がかかった。リクエストとあればお応えしないわけにはいかないではないか。「ジャンルはそういうことだから曲は適当に」とリクエストされたDJみたい。

ここ3ヶ月で読んだ文庫本でまず浮かんだのは、和田はつ子の「料理人季蔵捕物控」の『瑠璃の水菓子』(ハルキ文庫)と、高田 郁の「みをつくし料理帖」『美雪晴れ』(同)で、いずれも江戸を舞台にした料理人シリーズである。両シリーズとも全巻読破中で寝る前の頭休めとして結構はまっている。「みをつくし料理帖」は、10巻目となる来月8月発売の『天の梯』が最終巻になるそうだから結末は楽しみだがちょっと寂しい気もする。もうひとつは三浦しをんの『星間商事株式会社社史編纂室』(ちくま文庫)は単行本の文庫化だから対象外だし。指名なしの<とか、とか、リクエスト>だからといっても本人の趣味に合うかも気にしないといけないが、こちらの<勝手>で選ばせてもらうとなると新書だろうか。そういえば、とご本人が犬好きだったのを思い出した。

『犬の伊勢参り』

『犬の伊勢参り』

選んだのは仁科邦男の『犬の伊勢参り』(平凡社新書)である。伊勢神宮の式年遷宮を記念して行きつけの大型書店に特設された「神社・神道の紹介コーナー」で見つけた。犬がまさか<信仰心にかられて>ということはないだろうが、「犬だけでなく、豚や牛までも」とあったのもわが野次馬精神をかき立てた。

著者の仁科は元・毎日新聞記者。下関支局を振り出しに西部本社報道部、『サンデー毎日』編集部、出版局長などを歴任した。名もない犬たちが日本人の生活にどのようにかかわり、その生態がどのように変化をしてきたかについて文献資料をもとに研究している。この本では江戸時代に大流行した伊勢神宮への「御蔭(おかげ)参り」と「犬の参宮記録」を中心に、御所や神域での多くの動物や死にまつわる禁忌を「神宮と犬、千年の葛藤」でページを割いている。

江戸時代、ほとんどの人が、一生に一度はお伊勢参りに行きたいと思っていたから旧社殿のすぐ隣に新社殿を建てる式年遷宮のある年はとくに参拝者が多かった。遷宮のあとしばらくは両方の社殿に参拝することができるためだが、実際に伊勢参りに行けたのは生活にゆとりがある大人で、しかも男性がほとんどだった。女性や奉公人、子供は行きたくてもなかなか行けなかった。江戸や京・大坂では「伊勢講」が組織され、伊勢参りの功徳をお札の販売とともに宣伝する伊勢神宮の御師(おし)も全国を巡った。参拝を経験した人々はその体験を自慢しただろうし、時代は下がるが十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』にもにぎわいが描かれている。

京都周辺の信心深い人でも「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕様へは月参り」というものの伊勢までは遠かった。とくに女性は近郷近在の寺社にはよくお参りに出かけたが、家を守る立場では長旅は難しかったし、女性ならではの旅の危険や体力の問題もあった。一方で貧しい庶民のあいだではその日暮らしのなかでも「お伊勢さんにどうしてもお参りしたい」という欲望が膨れあがっていた。彼らはある日突然、親や雇い主にも黙って、仕事だけでなく何もかも放り出して仲間と示し合わせ伊勢へ向かった。これが「抜け参り」で、それがまとまって大きな社会現象になったのが「御蔭参り」である。「御蔭参」「お陰参り」「おかげ参り」などとも呼ばれ、慶安、宝永、明和、文政とほぼ60年おきに起きた。

なぜ60年周期だったのか。著者は7、8歳で御蔭参りを経験した子供たちは、大人になっても一応は「一生に一度の伊勢参り」を果たしているので、伊勢参りへの潜在的な欲求不満はさほど大きくはない。それが60年もたつと一度も伊勢参りをしたことがない人々が増える。年寄りは年寄りで「生きているうちにぜひもう一度お伊勢さんへ」という人生最後の欲求を抱える。一方で干支は60年たつと元に戻るから巷では「もうそろそろ御蔭参りが始まるはずだ」という噂も立つ。こうした相乗効果によっていずれの御蔭参りも数百万人から4百万以上が伊勢路に押し寄せたとみる。

犬が伊勢参りをしたという初めてのできごとは、こうした「御蔭参り」の最中に起きた。明和の式年遷宮は6年(1769)9月にあった。遷宮行事に触発されるように民衆の潜在欲求はふくれあがり、2年後の8年4月にはうねりとなって爆発した。子供や奉公人の下男、下女その他、名もない人たちが十分な旅費も持たず、着の身着のまま、仲間を見失わないように思い思いののぼりを立てて「おかげでなァ抜けたとさ」と歌いながら伊勢へ向かった。

伊勢参りした初めての犬の記録を残したのは伊勢神宮外宮の神官だった渡会重全(わたらい・しげまさ)で『明和続後神異記』にはその情景が詳しく残されている。

4月16日の午(ひる)の刻(昼ごろ)、上方から犬が参宮したと町のほうで騒いでいる。その犬を見てみると、毛色は赤と白のまだらで、小さめの雌犬だった。ちょうど山田筋向橋の茶店で、御蔭参りの参詣人に握り飯を施しているところだった。この犬にも握り飯を与えるとそれを食べて真一文字に外宮のほうに駆け出した。外宮の北御門口から手洗場に行き、ここで水を飲み、本宮に来るとお宮の前の広前(広場)に平伏し、ほんとうに拝礼する格好をした。常に犬は不浄のものを食うものなので、宮中に犬が立ち入るのは堅く禁じているが、この犬の様子は尋常ではなかったので宮人たちは犬をいたわり、御祓いを首にくくりつけて放してやった。

著者は「広前に平伏」というのは「伏せをした」ということだろうと解釈。その場にいた神官たちも、犬でさえも大神宮の神徳にあずかろうと思う<不思議>が起きたと思ったのではないかと推量する。

犬はそのまま一之鳥居から出て、今度は内宮に向かった。内宮の神官たちは御祓いをつけた犬を見て、子供のいたずらとでも思ったから杖で追い払ったが、犬は本道をそれて五十鈴川を渡り、ついに内宮の本宮の広前に至り、外宮のときと同じように拝礼する形をした。宮人たちはその様子に驚き、追い出すわけにはいかなくなった。犬は本道を経て、来た道を戻り、門前の旅籠屋にやってくると、そのあたりの人が奔走して一泊させた。ところが夜明けに、しきりに鳴くので戸をあけると飛び出して姿を消した。

続けて、後日談もある。
犬の飼い主は山城国久世郡填の島(現・京都府宇治市)の高田善兵衛という者だった。首にその家の名札を付けていたから帰りの道すがら銭を与えた人がいたらしい。首にくくりつけたひもを通した銭が数百にもなり、重くて大変だろうと銀の小玉に替えてあった。途中でそれを奪う人もなく、他の犬からも吠えられるようなこともなくつつがなく帰国した。一説には、ある大名家がこの犬の奇異をお聞きになり、犬の飼い主に乞うて東武(武蔵)へ連れて行った、という。

神官としては伊勢の神様をめぐって起きる不思議な出来事を残らず書き記すことも大切な仕事だったから高田善兵衛の犬の話も実証的に書き残した。著者はこの犬は折からの近所の人たちの御蔭参りについて伊勢まで行ったのではないかと推察する。御蔭参りの連中は伊勢神宮だけでなく、近在の二見が浦などの名所を見物したりしてすぐには戻らなかったから結果的に犬は一行とはぐれてしまった。その後は「伊勢参りをした犬だ。大したものだ」と評判になったから、出会う人々は犬にご馳走したり銭を与えたり、国元へ無事に帰してやろうと道案内までしたのでは、と分析する。

他にも福島・須賀川の「シロ」、徳島から来た「おさん」、長州藩の犬は母子で伊勢参り、参宮犬の最長旅は青森・黒石の犬で往復約2,400キロの記録が残ると紹介される。変わり種では広島からは豚が参宮したことや近江と大和からは牛までもお参りした。残された各宿場の送り状では「参宮犬」が隣村まで次々に送られていく証拠がこれでもかと示される。犬は単独で伊勢神宮まで参拝するという長旅をしたのである。本の帯にあるようにまさに「事実は小説より奇なり!」には違いない。
ではまた

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