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“9月30日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1955年  俳優・ジェームズ・ディーンが自動車事故により24歳の若さで死んだ。

ハリウッドから自分のレースカーのポルシェ550/1500RSの助手席に整備を担当する友人を乗せ、カリフォルニア州サリナスでのレースに向かう途中、州道に飛び出してきた車に激突した。発生時間は午後5時59分、車はアメリカに輸入された4台のうちの1台で軽量アルミボディ製、550は重量=kgを示すオープンカーだった。整備士は車外に投げ出されたため骨折だけで助かったがディーンはつぶれた車内に閉じ込められてほぼ即死状態だった。

いくつかの映画で端役をつとめたあと『エデンの東』で主役デビュー、この作品でアカデミー賞の最優秀主演男優賞にノミネートされた。その後、『理由なき反抗』で主役、『ジャイアンツ』で準主役を演じて再びアカデミー賞にノミネートされた直後の死だった。主役デビューわずか半年、次作に予定されていた『傷だらけの栄光』の主役は急遽ポール・ニューマンに変わり、彼の人気を不動のものにしたから運命とはわからないものだ。

『エデンの東』が日本で公開されたのはディーンの死の4日後の10月4日。突然の死によってイメージが美化され上演の劇場には長い行列が出来た。

*1903=明治36年  京都祇園甲部の芸妓・雪香が10万円もの大金で身請けされ話題になった。

誰にか、というとアメリカ人大富豪のジョージ・モルガンで祇園では「そんだけ出さはるんやったら南座が買えるえ」と囃されたほど、現在なら軽く10億円以上ともいわれる。本名・加藤ユキ、武家の家系だったが姉が祇園でお茶屋兼置屋「加藤楼」を経営していた縁から14歳で芸妓になった。京舞と胡弓に優れ1901=明治34年に出会ったモルガンから求婚されるが京都帝大生の恋人がいたこともあって断った。このときにモルガンが身請け金を聞いたのに冗談交じりに答えたのが10万円だった。モルガンはあきらめきれず再三、色良い返事を迫る。しかも驚くことに誰もが無理だろうと<わざと出した>10万円も用意した。この話が新聞に報じられたことで恋人とは別れることになった。報道以前に恋人が家族に大反対されて別れたとも、銀行に就職する妨げになるとして雪香が身を引いたとも。

モルガンとは横浜で盛大な結婚式を挙げ「モルガンお雪」として渡米した。ところがモルガン一族からはことごとく絶交宣言されてヨーロッパに渡り、パリで新婚生活を送った。やがてヨーロッパの社交界にデビューするとたちまち評判になるが1915=大正4年にモルガンがスペインで死去、遺産を巡る裁判に勝ってフランスで悠々自適の生活をしながら戦前の日本に3回帰国した。このうち1938=昭和13年から1年間は神戸・須磨一の谷の通称「異人山」で生活し、その際、六甲山腹の宗清稲荷に石灯篭一対を寄進している。

第2次世界大戦がはじまると日本に帰国、京都でキリスト教の洗礼を受けひっそりと余生を送った。洗礼名はテレジア、現在のカトリック衣笠教会はお雪の寄付で建立された。「金に目がくらんだ女」と言われ、世間の冷たい視線にさらされて辛酸をなめ続けたが、身請けは当時の花街の<掟>だった。それがアメリカ人、しかも大富豪だったからのやっかみも大きい。大徳寺門前の小家で81歳没。東福寺塔頭の同聚院に墓がある。

*1900=明治33年  情熱歌人が思慕を寄せる若い僧侶に手紙を書いた。

「駿河屋の羊羹」で知られた大阪・堺の老舗の三女、鳳(ほう)晶子でかねてからの思いを断ち切る手紙を覚応寺の若住職・河野鉄南に。

  さとりをひらき給ひし御目にはをかしとおぼすべし。むかしの兄様さらば。君まさきくいませ。
  あまりこころよき水の如き御こころに感じて   この夕  つみの子

晶子とはその後、与謝野鉄幹と結婚して与謝野晶子になった情熱歌人である。
  やは肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君
この歌の「君」が鉄南とされる。なかなかの美形に一方的にのぼせ上った晶子は三日にあげず手紙を書いた。この歌もそうだが「私は死ぬべく候」とまで書いた。それが1年も続いたので僧職の身の鉄南には持て余し気味だったのにまったく手紙が来なくなった。晶子の態度が急変した真意を問う手紙を出した返事の最後が「むかしの兄様さらば」だった。「いつまでもお幸せに、水のように穏やかなお心に甘えて」と<心変わり>を伝えている。

「つみの子」はその前にも「われはつみの子に候」などと書かれていて、鉄南に紹介されて会った鉄幹にすっかり心を奪われてしまい、あなたから心移りしてしまったということをわざとらしく<つみ=罪>と比喩している。アダムとイヴの原罪とは違ってまだ手も握ったこともないのに別人に恋する女の冷たさというか、手のひらを返すようなこの手紙に戸惑う鉄南に翌10月1日付で「われはつみの子に候、かの君もつみの子にておはすべし」と鉄南=<君>だったのが鉄幹=<つみの子の君>になったと追い打ちをかける内容だ。

たかが恋、されど恋の残酷さよ、ですねえ。

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