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“5月8日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1886=明治19年  アメリカでコカ・コーラが誕生した日とされる。

ジョージア州アトランタに住む南軍退役軍人で薬剤師のジョン・ペンバートン博士が新しく調合した清涼飲料水を作り出した。どんな名前にするかを共同経営者で経理担当のフランク・ロビンソンに相談した。彼はシロップや炭酸など主原料ではなく微量成分から語呂の合う二つを選んで組み合わせることを考えつく。南米の灌木の葉を乾燥した「コカ」と、アフリカ産の木の実「コーラ」とで「コカ・コーラ」というアイデアに博士も「いいね!」と。世界的に超有名になる商品名が生まれた瞬間だった。

日本では大正時代に輸入され、明治屋などで販売されたものの「薬くさい」などと敬遠され、一部の富裕層が気取って飲んだだけに終わった。しかし、ニューヨークなどへの外遊経験があった高村光太郎は愛飲していたようで詩集『道程』に収録した『狂者の詩』に「コカコオラ」として登場させている。

  吹いてこい、吹いてこい秩父おろしの寒い風(中略)
  コカコオラ、THANK YOU VERY MUCH
  銀座二丁目三丁目それから尾張町・・・

あとは省略するがしゃれた<小道具>として後段にも出てくる。

戦後、進駐軍がガムやチョコレートなどと一緒に持ち込んだがせいぜいPXか一部の輸入食品店くらいでしか手に入らなかった。国内製造が開始されたのは1957=昭和32年から。各飲料メーカーなどの猛反対を受けながらもその前年に日本コカ・コーラの前身となる日本飲料工業が工場を建設。遅ればせながら世界的飲物が<国産>として飲めることになった。

「コカ・コーラ」は愛称の「コーク」とともに1893年に商標登録された。その後、第三の商標としてあの独特の丸みと溝の入ったガラス瓶も登録されている。この原稿を書くまで「瓶は女性のボディラインをデザインしたもの」と思っていたが、コカ・コーラにまつわる<都市伝説=コークロア>のひとつであると知った。暗闇でも間違わないためと、当時千以上も出回っていた偽物対策に考案されたのだそうだ。永らく信じていたというのはくやしいけど<雑学>がひとつ増えた。

*1932=昭和7年  神奈川県大磯の小高い丘の草むらで若い男女の心中死体が発見された。

死体の見つかった丘は地元では「八郎山」と呼ばれ東海道本線大磯駅の裏手にあたる。警察の調べで慶応大学の制服制帽から東京の男爵一族で元銀行員の長男、経済学部3年の24歳と和服姿の女性は静岡県の資産家令嬢で22歳。睡眠薬による服毒死で結婚に反対されたためのよくある心中事件とみられ、海岸近くのお寺の境内にある無縁墓地に仮埋葬された。

この話を記事にした東京日日新聞(現・毎日新聞)記者の原稿では「坂田山」とされた。なぜ記事にしたか。埋葬された女性の死体が<消えて>しまったからでもある。記事は「坂田山心中、天国に結ぶ恋」だったが同時に猟奇事件の色彩も帯びて二転三転する。墓地の「土まんじゅう」が荒らされ、そばの塀に女の伊達巻が引っ掛かっていたのだから大騒ぎになった。大磯署は10日朝から署員総動員で捜索した結果、昼前に100mほど離れた船小屋の砂のなかから全裸死体が見つかった。

心中事件までは<よくある話>だったのが、全裸死体という前代未聞の猟奇事件ということで各新聞社がわっと押し掛けたわけです。いまでいうマスコミ・スクラム。犯人として逮捕されたのが現場の事情に詳しい墓人夫の65歳の男。各新聞はそれっとばかりに「おぼろ月夜に物すごい死体愛撫。美人と聞いてとがった猟奇心」(東京朝日)などとあることないこと書き立てるものだから警察も解剖結果を「正真正銘の処女でした」などと発表して火消しに懸命となった。

本当にそうだったのか。いや、動機のほうです。当時、地元にただ1社だけ駐在記者を置いていた東京日日新聞大磯通信局員の岩森伝記者は戦後出演したテレビのドキュメントで真相を明かしている。
「警察で彼がそう自白したことは確かだが、いくら美人だとしてもわざわざ運び出すことはなかったわけで、地元のボスに頼まれて反対派のところに死体を埋めたのです。心中死体は忌み嫌われましたから嫌がらせに。そう言い残してなくなりました」と。

松竹蒲田はこの事件を徹底的に美化して五所平之助監督、竹内良一・川崎弘子主演の『天国に結ぶ恋』として発表するが、映画館で西条八十作詞の主題歌を聞きながら心中したり、坂田山では連日のように心中死体が見つかったりと、とんだブームになるわけです。

  今宵名残の三日月も  消えて淋しき相模灘
  涙にうるむ漁火の    この世の恋のはかなさよ

  
  いまぞ楽しく眠りゆく   五月青葉の坂田山
  愛の二人にささやくは  やさしき波の子守唄

1番と4番だけにしておくが昭和恐慌から戦争の足音がついそこまで迫り、無気力に生きるより死を選ぶという<昭和の死の季節>の象徴になる事件でありました。

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