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“5月9日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1956=昭和31年  槇有恒隊長の日本山岳会の遠征隊が未踏峰のマナスルに初登頂した。

ネパールヒマラヤにそびえる世界第8位の高峰で標高8,163m、山名はサンスクリット語で「精霊の山」を意味する。52、53年のアタックは天候不順で失敗したがようやく3回目で登頂を果たした。この日、今西壽雄とシェルパのギャルツェン・ノルブが、11日には加藤喜一郎と日下田實が頂上に立った。11月には登頂記念切手が発行されたが、まだ「10円」だった時代。

*1941=昭和16年  毎月2回の「肉なしデー」が始まった。

肉の品薄を理由に肉屋での肉の販売や料理店、食堂での「肉もの」の提供も禁止となった。農林省が予告を出したのは3月。対象は鯨肉を除く鳥獣肉一切で食肉業界や飲食業界の代表らが協議を重ねた。東京では毎月2回、8・18日には小売店をはじめ食肉関係者が積極的に休業するほか、飲食店や料理店もその日を「肉なし料理の日」と決めた。

しかし当時の状況は前年8月に公定価格が設定されたこともあって肉屋の店頭には牛肉は3分の1程度、豚肉はほとんど姿を消していた。では肉はどこへ行ったのか。生産地を回った業者の買い占めで値がつり上がり「闇肉」として高級飲食店などに流れ、とっくに庶民の口には入らない存在になっていた。

迎えた初日、「もともとなかったのに肉なしデーとはこれいかに」に「そんな皮肉に<肉>あり」といわれたとか。皮肉の<肉>だけに<食えない>シャレです。事前に買いだめした肉を使って炒飯を作っていた店や、作り置きのカレーのなかに肉片が残っていたと摘発された店はあったものの大きな混乱はなし。背景には物資不足や供給のアンバランスがあったわけで、開戦前から早くも<肉離れ>の帝都食料事情でありました。

*1869=明治2年  横浜で日本初のアイスクリームが「アイスクリン」の名で売り出された。

馬車道で氷水店を営んでいた町田房蔵が製造・販売した。値段は1人前2分、いまのお金に換算すると約8千円だそうだから相当に高かったが日本アイスクリーム協会は町田の功績をたたえてこの日を「アイスクリームの日」と定めた。

町田は旗本納戸役の家に生まれた旧幕臣で、1860=万延元年、16歳のとき日米修好通商条約批准の遣米船の随行をした咸臨丸の乗組員として渡米した。このときの歓迎夕食会のデザートとして出されたのがアイスクリームだった。一行には福沢諭吉や勝海舟もおり、日本人として初めてアイスクリームを口にした。この感激が忘れられなかったのだろう。

別人ではあるがそのときの随行員・柳川当清は日記に
又、珍しき物あり。氷を色々に染め、物の形を作り、これを出す。味は至って甘く、口中に入るにたちまち解けて、まことに美味なり。これをアイスクリンといふ。
と率直な喜びの感想を書き残している。

冷蔵庫のなかった時代、ヨーロッパで発明されたアイスクリーム製造法がアメリカに輸入されてアイスクリームを楽しむのが一気に広まった。町田が伝手を頼って機械などを取り寄せたのかなどは分からないがいまのとは違い牛乳と砂糖、卵黄を練った「カスタードアイス」だったという説もある。しかし値段が高すぎたこともあって時たま外人客が立ち寄るくらいで売れ行きはさっぱりだったという。東京・銀座の資生堂がアイスクリンを売り出して人気になるのは1899=明治32年だったから<30年早すぎた>わけだ。

*1929=昭和4年  本格トーキー映画『進軍』が東京・新宿の武蔵野館で封切られた。

トーキーは1927年にアメリカで発明されたフィルムの余白部分に音声信号を入れて劇場で再現する技術である。それまでは各映画館の専属楽団が音楽を演奏し、弁士が劇中人物のせりふを感情込めて語ることが定着していた。それがまったく必要なくなるという画期的な発明だけに楽士や弁士の大量失業が問題になった。新聞には「トーキーの犠牲、弁士の失業続出す」とか「弁士、ニ、三流どころ早くも都落ち」などの見出しで大きく報じた。

弁士のなかでは<一流どころ>と言われていた徳川夢声は朝日新聞のインタビューに
「トーキーが外国映画に限定されている間はどうにかやりくりがつきますが、内地映画がどしどしトーキーを作り始めたら大変なことです。弁士といふ我国にのみ限られた珍職業が現れてから30年ですが機械文明の発達とともに没落することになればこれは大きな社会問題になりませう。数か月は生き延びるかもしれませんが、その間に各自で生きる道を考えねば。既に我々は考えてゐます」と答えている。見出には「生き延びるのももう数カ月、夢声悲しげに語る」とある。
身の振り方を<考えていた>という夢声はその後、ラジオに出たり、漫談家や作家として活躍、小説では2度も直木賞候補になったのだからそう言うだけのことはあった。

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