1. HOME
  2. ブログ
  3. “5月7日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“5月7日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1703=元禄16年  大阪・竹本座で近松門左衛門の人形浄瑠璃『曽根崎心中』が初演された。

実際に曽根崎で起きた心中事件を脚色した作品で、町人社会の義理や人情をテーマにした世話物のなかでも実話・実録の際物(きわもの)と呼ばれるジャンルのひとつだ。

伯父の経営する大店の醤油屋・平野屋の手代で25歳の徳兵衛と、北の新地・天満屋の遊女で21歳のお初が心中に至るまでを描く。伯父やその妻、自分の継母など親族関係のあつれきを背景に、徳兵衛は信じた友達に預かったお金を貸すが騙されてしまう。死んで名誉を取り戻すしかないと思いつめた徳兵衛にお初が同情しての道行きが観客の涙を誘い連日の札止めになった。

この世では添えないがせめてあの世では、というお初のセリフに徳兵衛への一途な思いが込められる。

徳様に離れて片時も生きていようか。どうで徳様死ぬる覚悟、わしも一緒に死ぬるぞいの

この一作で竹本座は年来の借金をすべて返済、専属の浄瑠璃作者だった近松もこの作品で一気に人気者になった。生涯で100作以上の作品を残した近松だが、もてはやされたのは歴史に題材をとった「時代物」で、20作ある世話物の再評価は昭和になってからだった。

歌舞伎で上演されるのは1953=昭和28年に宇野信夫が脚色演出したもので「生玉社」「天満屋」「曽根崎の森」の各段が通しで演じられるというのが<一口メモ>。

*1954年  フランス植民地、インドシナの最後の砦となったディエンビエンフーが陥落した。

抵抗を続けたのは約1万人のフランス兵とされるが守備隊の3分の1が南ベトナム兵だった。しかも決死隊に応募しての最期だった。そこに後のベトナム戦争の芽があった。

*1824年  ベートーヴェンの交響曲第9番がオーストリアのウィーンではじめて演奏された。

わが国では「第九」として年の瀬の“風物詩”としておなじみで、シラーの詩をベートーヴェンが書き直したあの「歓喜の歌」が第4楽章に歌われる。交響曲に声楽が効果的に使われたはじめての例であり、ロマン派音楽の時代の<道しるべ>となった記念碑的大作としても知られる。

名声を手に入れ、ロマン・ロランが評するように「傑作の森」を歩んでいたベートーヴェンだったが、持病の難聴が悪化し50代にはいると聴力はほとんど失われていた。おまけにこの演奏会は管弦楽、合唱ともアマチュアの混成で、直前のメンバー交代もあって練習時間も少なかった。正指揮者は友人のウムラウフに頼みベートーヴェン自身は各楽章のテンポを指示する役割として指揮台に立った。

長い演奏がようやく終わってもベートーヴェンは聴衆のほうを向かなかった。自身は<失敗だ>と思っていたのと、拍手がまったく聞こえなかったから。見かねた若いアルト歌手のカロリーネ・ウンガーが彼の手を取って振り向かせ、そこではじめて拍手が<見えた>という逸話が残る。観客は熱狂しアンコールで2度も第2楽章が演奏され、3回目は警備の兵に止められたという。

たしかにこの交響曲第9番はかなりの「難曲」とされている。長い作品なので演奏レベルをそろえるのが難しい。しかも声楽のある第4楽章が前の3楽章に比べて異質なので<折り合い>をどううまくつけるか。プロの音学家養成機関がなかった当時、この初演以外はことごとく失敗したとされるのも無理からぬことだった。

余談だがわが国では第1次世界大戦で中国・青島のドイツ極東基地への攻撃で捕虜にしたドイツ軍兵士を収容する徳島県鳴門市の板東俘虜収容所で兵士たちが全曲を演奏したのが初演とされる。1918=大正7年6月1日の出来事だったが06年に東映などが製作した映画『バルトの楽園』で埋もれていたエピソードが紹介されて大きな話題になった。

*1840年のこの日、ロシアの作曲家チャイコフスキーが生まれた。

音楽つながりでもうひとつ紹介する。チャイコフスキーといえばバレエ音楽なら『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』などがすぐ浮かぶ。幻想序曲のほうは『ロメオとジュリエット』『ハムレット』行進曲なら『スラヴ行進曲』あたりだろうか。親しみやすい作風からわが国ではなじみ深い音楽家で名前を冠した「チャイコフスキー国際コンクール」はもっとも権威がある<世界3大音楽コンクール>のひとつとなった。

関連記事