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“10月19日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1781年  アメリカ独立戦争のヨークタウンの戦いが決着しその調印式が行われた。

米仏連合軍17,000名はグレートブリテン王国=イギリス軍の拠点だった東バージニアのヨークタウンを包囲した。立てこもるのはチャールズ・コーンウォリス将軍率いる7,000名、大西洋から深く入り込むチェサピーク湾の入口にあり、海からの支援が予定されていたが援軍はなかなか来なかった。頼みのイギリス艦隊は8月21日のチェサピーク湾の戦いでフランス海軍の28隻からなる艦隊に撃破されて制海権を失った。しかし18世紀から無敵を誇ったイギリス艦隊が敗れたのはこの海戦のみだったのでニューヨークからの援軍はまだ可能性があると思われていた。

連合軍の前線は次第に狭まり陣地のなかにも砲火が届くようになる。日増しに死者も増え、食料や弾薬も底をついた。ここに至ってコーンウォリス将軍はようやく降伏を申し入れた。調印式には将軍は病気を理由に出席しなかったのでアメリカ軍の総指揮をとった将軍ジョージ・ワシントンは指揮官のひとりベンジャミン・リンカーン将軍にコーンウォリス将軍の軍刀を受け取らせた。イギリス軍の兵士たちは当時の習慣で、自分たちの武器や火器を<踏みにじる>ことで屈辱の降伏を示した。

大陸に残るイギリス軍はまだニューヨークやチャールストンなどの主要港を占領していたから散発的な戦闘が続き、ワシントン自身も戦争の継続はやむなしと思っていた。ところがイギリス首相ノースがヨークタウンでの敗戦の責任を取って辞任、後任のロッキンガムが和平交渉を選択したことで7年半にわたった戦争はようやく終結することになった。

この戦争によって植民地アメリカはイギリスの支配を拒否して政治的にも独立に成功し2年後に行われたパリ条約で正式に独立が承認された。当時の国旗は円形に並んだ13の星と両端に赤7、白6の計13のストライプで13州の独立を表した。以降、独立州の増加ごとに星が増やされハワイ州でちょうど50になった。

*1878=明治11年  この日の「団々珍聞」に女義太夫の話題が登場した。

「昔も今も芸より容姿」
「木戸口に進み出て、入らっしゃいと声かくるは、芸の巧拙にかかわらず、容姿のうるはしきを選ぶなるべし」

*1925=大正14年  応援団問題で中止されていた早慶戦が19年ぶりに復活した。

応援団問題とは1906=明治39年秋、第1戦に勝った慶応の学生が大隈重信邸と早稲田の正門前で万歳三唱をした。翌日の第2戦に勝った早稲田の学生がお返しにこんどは福澤諭吉邸と慶応の正門前に大挙して押しかけ万歳三唱をしたのをきっかけにエスカレートした。両校の応援団は一触即発となり応援席の配分を巡ってももめ、ついには絶縁状を送り合う険悪な状況になったことで早慶戦は中断されることになった。

復活第一戦の前売り券は混乱を避け電報為替で販売されたが注文殺到で即日売り切れた。球場に入れないファンのために速報板が置かれた試合解説の「特設ステージ」が作られた。試合前、後に球場にその名を残した早稲田の野球部長・安部磯雄がグランドに立ち、早慶戦復活の意義と応援マナーの順守を訴える異例の幕開けになった。試合は一喜一憂のシーンもなく第一戦が11X―0、第二戦が7X―0で早稲田の圧勝となった。

この年からラジオの実況中継が始まったことも人気に拍車をかけ横山エンタツ・花菱アチャコの漫才コンビが有名な『早慶戦』で国民を沸かせた。

アチャコ:「野球は早慶戦に限るね」
エンタツ:「そーけー」
アチャコ:「センターバック、センターバック」
エンタツ:「オールバック」
アチャコ:「散髪屋やないんやから」
アチャコ:「打ちました、打ちました」
エンタツ:「ホームラン」
アチャコ:「ファーストを回ってセカンド、セカンドを回ってサード、サードを回ってホーム、ホームを回ってレフト」
エンタツ:「おいおい、どこまで行くねん」

ちょび髭にメガネのエンタツと、ほんわかと福々しい顔のアチャコの繰り出す<かぶせ>という繰り返しと軽妙な間が観客に受けた。早慶戦などまったく知らなかった人々にも「早慶戦とは」を知らしめたわけです。

そういえば早稲田の応援席からグラウンドに投げ込まれたリンゴを慶応の三塁手だった水原茂が投げ返す「リンゴ事件」というのもありました。以来、応援席とダッグアウトは早稲田が1塁側で固定され、早慶戦はリーグの最終週になりました。

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