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“11月2日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1934年  スウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンが足留めされていたウルムチをようやく出発した。

ヘディンは4月から3ヶ月の探検で「幻の湖」といわれたロプ・ノールが1,500年周期で東西に移動することを突き止めたがウルムチに戻ったところで新任の新疆省主席によって拘留された。政情不安で探検とはいえ動き回るのを嫌われたからで拘留は4ヶ月も続き、季節は厳しい冬に向かっていたからせっかくのシーズンを逃した。それでも各地の千仏洞や楼蘭などの探査を続けながら翌年2月にようやく西安にたどり着いた。

生涯独身で90年に及ぶ長い生涯の大部分を中央アジアの探検とその記録の整理・刊行に捧げた。無名だったころから大きなものだけで計4回の遠征をやり遂げた。なかでも源流部までのタリム河の調査、チベット高原や東トルキスタンの踏査などで<地図の空白部>を埋めた。単独行から始まった探検は次第に大規模になり、かつさまざまなメンバーを同行しての本格調査になったからノーベル財団などの支援などはあったが資金手当てが最大の苦労だった。ナチス・ドイツ華やかなりし頃にスポンサーとしてヒトラーと親密だったことなどを批判され、スウェーデン国内では業績や存在まで抹消された時期もあった。

タクラマカン砂漠のなかで水が尽き危うく死にかけ、チベット探検では何度も死地をくぐり抜けた。私自身も探検記の多くを繰り返し読んだが、読むほうとしては危険なところが手に汗握り興奮させられたわけだ。多くの謎があったロプ・ノールの探検はもっとも有名で<さまよえる湖>と呼ばれている。小さな岩窟に至るまでくまなく巡った千仏洞では「堅い岩盤にこれだけの仏像を彫った人々の努力と忍耐には心から感銘を受ける。だが後世の人間の荒らすに任せてしまったことは実に残念だ」と嘆いた。

*1883=明治16年  東京帝大の卒業式をボイコットして暴れた147人が退学処分になった。

前年までは卒業式=学位授与式を夕方から行い、式の前には運動会を開くのが恒例だったのを朝からに変更したのが発端だった。在校生たちは式後の送別会に出る酒や料理をこっそりもらい受け夜陰に乗じて運動場で酒盛りをしてきた。式が朝からに変更となると来賓の皇族や政府高官、各国大使の目もあるうえ運動会もなくなるとして反発が広がった。

これに呼応した在校生や寮生は10月27日に行われた式をボイコットしたうえ上野公園で<秋期運動会>を開き、日暮里の原っぱへ移動して酒盛りを始めた。やがて高歌放吟の乱痴気騒ぎとなり寮に戻ってからも荒れた。寮のランプを叩き壊し、ガラスを割り、板塀を破壊して暴れ回りなかには食堂に小便した不届き者も。一時は警官隊も出動する騒ぎとなったがどうにか収まったものの文部省が厳正処分を求めると大学側は「学生生徒取調委員会」を設置して厳罰主義で臨むことを打ち出した。

出された処分は「大学生、予備門生の全員退学」だった。さらに東京府知事から「処分された学生は他の官公私立学校への転学を禁止する」という通達まで出されたため有為の若者を集団退学させたことに世論の批判を集まった。大学側は翌年3回に分けて処分を取り消して全員の復学を許した。このときの卒業生には細菌学者の北里柴三郎や評論家の三宅雪嶺(雄二郎)らがいた。処分された側には後に造船業をはじめとする川崎財閥を率い国立西洋美術館に残る「松方コレクション」で知られる松方幸次郎がいる。松方は大学には戻らずアメリカに渡りエール大学を卒業した。

*1874=明治7年  読売新聞の前身「隔日出版 官許 読売新聞」が創刊された。

隔日は文字通り<1日おきの発行>という意味で、縦26センチ、幅35センチの紙1枚の片面のみから始まった。「この新聞紙は女童の教えに為になる事柄を誰にでも分かるように書くことを主義とする」とし、全文がわかりやすい通俗語=口語体で、漢字には仮名を振った初の大衆紙だった。江戸時代の「読売瓦版」にならってはじめのうちは売り子が街頭で内容を読み聞かせて販売した。

当初の発行元は合名会社・日就社で尾崎紅葉の『金色夜叉』や定期購読者に重大事件の速報を電報で伝える「電報通信」サービスなどで部数を伸ばし1917=大正6年に讀賣新聞社に改称した。

*1945=昭和20年  日本社会党の結成大会が東京・日比谷公会堂で開かれた。

戦前の社会大衆党などの無産政党系の勢力を結集した政党で約2千人が参加した。当面、委員長は空席のままとし書記長に片山哲を選んだ。「民主主義・社会主義・恒久平和」の三つからなる綱領や党則と合わせ食料問題解決を党の緊急対策に決定した。

確実に実行させるために当初案の<4合>を減らして「3合配給の即時実行」を訴えることを決めたのはいじましいが、主義主張よりもまずは切実だった食料確保をめざしたいという当時の世相を反映したものだった。

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