1. HOME
  2. ブログ
  3. “1月12日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“1月12日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1914=大正3年  鹿児島・錦江湾に浮かぶ桜島が大爆発を起こした。

前日からの地震に引き続いて午前8時過ぎから頂上南岳西側の山腹から噴火が始まった。東側の鍋山も同時に噴火して噴煙は7千から8千メートルにも上った。これに伴い火山雷が頻発して午後6時28分にはマグニチュード7.1の強い地震も起き鹿児島市内では家屋や石垣が倒壊した。

噴火が最も激しくなったのは翌日13日午後1時ごろからで夜に入ると7時30分に大火柱が見られた。同時に流れ下った火砕流と溶岩流が西南戦争時に臨時県庁がおかれた西側の赤木集落と西桜島村の行政の中心だった横山集落を埋没させた。溶岩流はさらに海抜22メートルの烏島をのみ込んでしまった。また、島の東側では水深72メートル、幅500メートルもあった瀬戸海峡が溶岩で埋まり対岸の大隅海峡と地続きになった。

溶岩流は2月上旬まで続き、逃げ遅れた住民を中心に死者・行方不明58名を出した。火山灰は大隅半島などで1.5メートル、鹿児島市でも45センチにも達した。降灰は九州各地だけでなく東北地方でも観測され、東京にも降ったことが記録された。噴出した溶岩などの総量は東京ドーム約1,600個分の32億トンに上ったと推計され、容積は2立方キロにもなった。わかりやすくいうと<一辺1キロの立方体>の2個分となる。

住民の避難が遅れたのは当時の鹿児島測候所の判断が「避難までは必要がない」としたことがあげられている。さらに島の周囲の海面を1メートル以上も埋めた軽石により船での避難が妨げられたことが被害を広げた。この教訓を東桜島小学校にある桜島爆発記念碑には「住民は理論を信頼せず異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」と記され、別名<科学不信の碑>とも呼ばれる。

*1951=昭和26年  奈良・平城宮址(跡)の発掘調査が始まった。

きっかけになったのが日米行政協定による行政道路新設と近畿日本鉄道の車庫建設というふたつの開発計画だった。これに反対する学者・文化人などの建設反対運動が国を動かし、計画は変更されて土地の国有化と奈良文化財研究所を中心とする発掘調査が行われた。

これまでの調査によって平城宮の中心建物となる朝堂院などの建物群は2度にわたって建て替えられていることや薄く削った木片に墨で字を書いた数万点にも上る大量の木簡が見つかり当時の宮廷の生活が細部まで解明されている。1998=平成10年には東大寺、興福寺、正倉院などとともに「世界遺産」に登録され、2010=平成22年には「平城京遷都1300年祭」が行われた。

*1963=昭和38年  歌会始での盗作が3年連続で発生し「歌会始盗作事件」として話題になった。

36年の入選作だった兵庫県の女性の作品は入選が取り消され、翌年の岡山県の男性は入選を辞退していた。この年の山梨県の男性の入選作品も「そっくりの歌がある」という投書があったことで入選取り消しになった。

連続する盗作騒ぎに宮内庁も頭を抱えた。宮内庁の瓜生次長も
「ではどういう要素を増やしたら盗作が防げるのか決め手はないといっていい。これ以上応募者の調査をすることは大らかな儀式の性格にも反する。応募者の良識にまつほかない」と会見で苦渋の表情を浮かべた。作家の平林たい子は
「私たちにはよくわからないモヤモヤした名誉欲ですね。純粋な皇室敬愛というものとはまたちがった、一種の時代のズレた権威主義みたいなもの。都会人にはもうあまりない感情で、そのせいか詠進するのも地方の人が多い」
とこちらはバッサリ。朝日新聞の「かたえくぼ」にも「また盗作騒ぎ――とうとう“疑い始め”が本式になってしまった」と書かれる始末だった。

*1928=昭和3年  日本放送協会が野球、水泳に次いでラジオで大相撲の実況中継を開始した。

当時は「大鉄傘」の通称で知られたドーム型屋根の旧両国国技館で行われていた。あるいは「日大講堂だった」といった方が早いかも。実施前には客足が遠のくのではないかと心配する声や、反対意見もあったが、実際に中継が始まると連日、超満員になった。それまでは実際に足を運ばなければ相撲観戦ができなかったのが同時中継することで<臨場感>が伝わり「いつかは実際にこの目で相撲が見てみたい」ということにつながっていった。

折しも前年には東京と大阪の相撲協会が解散し、新たに大日本相撲協会が発足していた。本場所は1月と5月が両国、3月と10月が大阪での年間4場所制になり、ラジオ中継に伴って土俵に「仕切り線」が新設され、仕切りに制限時間が設けられた。さらに不戦勝・不戦敗制度の導入や物言い・取り直し制度などが実施されたことで勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。

関連記事