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“10月20日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1180=治承4年  源平両軍が初めて対峙した「富士川の合戦」があっけなく終わった。

8月に源義経挙兵の報を受けた平清盛が怒って孫の維盛をただちに追捕大将軍に任じて東下させた。平家は福原に遷都していたこともあり兵の調達が進まず京都を出るまでに1週間もかかってしまう。維盛は進軍途中で武者をかき集めて4千から4万騎でなんとか富士川までやってきて川の西岸に陣を敷いた。一方の源氏軍は上総広常が2万騎、そこに甲斐源氏や関東の精鋭も参集して4万騎から20万騎にのぼった。なぜこんな差があるかというと残された記録がさまざまだから。維盛のほうは兵糧も欠乏なく士気も低下して脱走者が相次いでいたからまともに戦える状態ではなかった。

この夜、平家の陣の背後を衝こうとした武田勢の一団が浅瀬に馬を進めたところそれに驚いた水鳥が一斉に飛び立った。「すわ、奇襲か」と平家は弓矢、甲冑、諸道具を捨てて逃げまどい連れてこられた遊女たちも馬に踏みつぶされてしまったと伝える。そうなったら維盛も混乱を収拾できず、撤退せざるを得なかった。もっとも記録は「水鳥の羽音」以外にも「兵の寝返り」「陣への放火」「敵=源氏の軍勢の多さを見て」とさまざまある。ようやく京に辿り着いた維盛はわずか10数騎だとされるからまさに<命からがら>の敗走だったのでしょう。

*1921=大正11年  「大正三美人」といわれた歌人の柳原白蓮が<駆け落ち>した。

読売新聞は「同棲十年の良人=夫を捨てて白蓮女史、情人のもとに走る」の見出しで、大阪朝日新聞は社会面の全段ブチ抜きで詳報した。白蓮は1885=明治18年、伯爵・柳原前光が柳橋の芸妓に生ませたが正妻の次女・燁子として入籍、本邸に引き取られ東洋英和女学校に進んだ。在学中に歌人の佐佐木信綱に師事し白蓮の名で『心の花』に投稿するようになった。子爵家に嫁ぐが5年後に離婚、27歳のときに九州一の炭鉱王で25歳年上の伊藤伝右衛門と結婚した。伝右衛門は一代で巨万の富を築いた立志伝中の人物で先妻を亡くしていたから華族から後妻を迎えるのは大乗り気で、福岡県飯塚市の本宅とは別に福岡と別府に屋根をすべて銅で葺いた「赤銅(あかがね)御殿」を建てて迎えた。

しかし裸一貫でたたき上げた教養とは無縁の人物で、内実は兄の選挙運動費用などを捻出するための政略結婚だった。しかも家には妾やその子、父の妾の子や親族まで同居しており数十人もの女中や下男や使用人がいた。荒っぽい筑豊の気風にもなじめずその悩みや苦しみをひたすら歌に託して詠むうちやがて「筑紫の女王」と呼ばれるようになる。

  ともすれば死ぬことなどを言ひ給ふ恋もつ人のねたましきかな
  女とて一度得たる憤り媚に黄金に代へらるべきか

歌集や戯曲が人気を呼んだことで「上演希望の劇団があるので許可して欲しい」という書状が新聞記者から届いた。詳しい話を聞きたいと白蓮が別府の別荘に記者を招くと予想に反して現れたのは角帽をかぶった東京帝大の学生の宮崎龍介だった。7歳年下、父は孫文の辛亥革命を支援した憂国の士の滔天で、同志らと「新人会」を結成して労働運動に打ち込んでいることや社会変革の夢について情熱を込めて語った。白蓮にとってこんな人物と会ったことは久しくなかった。最初の出会いで情熱歌人はたちまち「恋もつ人」になった。文通が始まり白蓮からは日に数通もの手紙が届くようになり龍介はブルジョア夫人との交際はまかりならんと「新人会」を除名された。白蓮は春と秋の上京で龍介と逢瀬を重ね、愛はさらに燃え上がる。しかし現実は残酷なことに姦通罪という恐ろしい罪のある御時世だった。やがて白蓮は龍介の子を宿してしまう。

10月20日午前9時30分、白蓮は東京駅発の特急で九州に帰る伝右衛門を見送るとその足で龍介のもとに走った。事前に新聞社に渡していた「公開離縁状」が間もなく掲載された。

「私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます」

他の新聞もこの事件を大々的に取り上げたから世論は白蓮を激しく非難する声で満ちた。天皇家と近かったことで<国体をゆるがす>大事件として白蓮や柳原家が攻撃されこの一件で兄は貴族院議員を辞職することになる。白蓮は男児を出産した後、断髪し尼寺に幽閉の身となった。幸いだったのは伝右衛門が最終的に親告罪である姦通罪を申し立てなかったことで伝右衛門との離婚が成立した。

龍介は結核を乗り越えて弁護士として活躍したが後に「私が動けなかった三年間は、本当に燁子の手一つで生活したようなもの」と回想している。2人で中国にも渡り父・滔天の足跡を訪ねたこともある。長男の戦死もあって戦後は平和運動に参加、熱心な活動家として知られた。晩年は緑内障で両眼失明、龍介の介護のもとに、歌を詠む日を送った。

  月影はわが手の上と教へられさびしきことのすずろ極まる

やがて波乱の人生も終幕となる。1967=昭和42年、長逝。享年81。スキャンダルの末没落した実家・柳原家をしり目に晩年は平穏で幸せな生涯だったか。

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