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“6月28日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1914年  オーストリア領のサラエボに響いた2発の銃声が第一次世界大戦を引き起こした。

現在のボスニア・ヘルツェゴビナは当時、オーストリア領だった。この日は日曜日で快晴、野戦演習の視察を終えたオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントとゾフィー妃夫妻は駅頭から自動車を連ねて市役所での歓迎式に向かっていた。この時、テロリストが投げた爆弾が随行員の車に命中しけがを負わせた。犯人はすぐに逮捕されたので式典は予定通りに行われたが皇太子が「市長、爆弾で歓迎されるとは」などと発言して白けたまま終わった。

終了後、一刻も早く会場を出たかった皇太子はけがをした随員を見舞いたいと言い出してオープンカーで病院に向かった。ところが予定外だったため運転手は病院を行き過ぎ、Uターンしようとスピードを緩めたところに近づいた別のテロリストがピストルで妃の腹部、皇太子の首を撃った。直ちに総督府官邸に運ばれたが二人とも間もなく息を引き取った。テロリストたちは民族主義秘密結社「黒い手=ツルナ・ルーカ」のメンバーで銃や爆弾、自決用の青酸カリを持っていたが青酸カリは“期限切れ”だった。オーストリアは犯人らの引き渡しも含めてセルビアに猛抗議したことで戦争が勃発することになった。この日は夫妻の14回目の結婚記念日、5年後にヴェルサイユで講和条約が締結されたのも奇しくも同じ日だった。

*1953=昭和28年  「西日本水害」で死者・行方不明千人以上、被災者百万人以上を記録した。

活発な梅雨前線の影響により九州北部は25日から猛烈な豪雨が続き熊本市内の中心を流れる白川が氾濫するなど各地に大きな被害を出した。家屋の流失や浸水45万戸にのぼった。この日11時前には関門鉄道トンネルの門司側入り口から土砂混じりの大量の水が流れ込み始めた。門司駅では博多発京都行きの上り特急「かもめ」をそのまま停車させ、対岸の下関駅に連絡を入れたが直前に岩国発佐世保行きの下り327普通烈車が発車したあとだった。水の流入はますます増え、両側の側壁からは滝のように流れ落ちる。通常なら両駅間は10分、トンネル通過は6、7分だったが駅員や保線区員らは万一でも列車がトンネルの手前で停まっていてくれるのを祈った。ところが間もなく滝の中から電気機関車があらわれ続いて列車も姿を見せた。まさに間一髪だった。

流れ込んだ土砂は計9万立方メートル、この直後からトンネルは不通になり国鉄では全国の支店網を通じて大型排水ポンプを集めた。新潟県の信濃川工事事務所や三井鉱山、さらには米軍からも機材を借りてようやく13日に復旧させ、14日にまず下り線、21日に全線が開通した。記録写真には側壁から滝のように水が流れ落ちるところやドラム缶を使った筏で復旧作業にあたるトンネル内部の様子が残る。両側の入口に防水扉が設置されたのはこのときの教訓から。

*1951=昭和26年  『放浪記』の作者、林芙美子が東京・下落合の自宅で亡くなった。47歳。

前日朝から連載2本を書き、夕方には「主婦の友社」が企画した「私の食べ歩き」のために雑誌読者と同行、帰宅後に体調を崩した。戦後女流作家の第一人者として死の前日まで書き続けた林を吉屋信子は「林さんをジャーナリズムが殺したというひともいたが、むしろ林さんがジャーナリズムの寵児の位置をいのち懸けで死守した感もある」(『自伝的文壇史』)と評した。

朝日新聞に連載中だった『めし』が絶筆となった。主人公の初之輔らが大阪駅前から遊覧バスに乗るところから始まる。天下茶屋、天神の森、帝塚山、宗右衛門町、じゃんじゃん横町など大阪の街が小説の舞台として詳しく紹介される。時代設定は昭和26年、将棋クラブが1時間20円、まむし(=うなぎ丼)100円、ストリップ30円・・・と出てくる。

東宝はこれを映画化することに決定、長く続いた争議で活躍の機会がなかった成瀬巳喜男を監督に、初之輔に上原謙、妻に原節子を起用してわずか5カ月後に封切りした。大恋愛で結ばれて5年目、倦怠期にある夫婦がささいなできごとから亀裂を深めるが最後は家を出た妻が夫の元へ戻り、平凡だが心休まる生活に幸福を見出すという結末が補足された。

撮影は以後、成瀬と名コンビを組むことになる玉井正夫。ささやかで慎ましい夫婦の生活の匂いを感じさせる住居、日常生活のきめ細かい描写や、初めて<市井やつれした妻>を演じた原の微妙な表情の変化、それを受ける夫役の上原の抑えた演技などが成瀬独特の作品世界を構成して初期の代表作となった。流れる音楽は林への挽歌とされ、映画は大ヒットしたが林ファンの中には<この夫婦は別れた派>も多く、果たして林が構想した結末がその通りだったかはもちろんわからない。

生前、林は色紙などに好んで「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と書いた。『放浪記』に残したように<宿命的に放浪者>だった林の命も同じように短かった。

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