1. HOME
  2. ブログ
  3. “11月20日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“11月20日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1942=昭和17年  戦時中の翼賛運動のひとつとなった「愛国百人一首」が発表された。

日本文学報国会が内閣情報局の後援を受け東京日日新聞と大阪毎日新聞の協力で企画した。選定委員には佐佐木信綱、土屋文明、釈迢空、斎藤茂吉、北原白秋ら錚々たる歌人12人が選ばれたが白秋は委員就任後まもなく死去した。目ざしたのは「聖戦下の国民精神作興」で万葉時代から幕末までの<詠み人知らず>を除く和歌で愛国精神が、健やかに、朗らかに、そして積極的に表現されていることとされた。後援・賛助に名を連ねた内閣情報局や大政翼賛会は厳しい検閲をしたから「大君」「君が代」「士(おのこ)」「丈夫(ますらお)」「もののふ」「桜」などを詠った歌が選ばれている。翌年には『定本愛国百人一首』として刊行され「絵入りカルタ」も発売された。

  柿本人麻呂  大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも
  高橋虫麻呂  千万の軍なりとも言挙げせずとりて来ぬべきをのことぞ思ふ
  山上憶良    士やも空しかるべき万代に語り続ぐべき名は立てずして
  源俊頼      君が代は松の上葉におく露のつもりて四方の海となるまで
  大伴家持     天皇の御代栄えむと東なるみちのく山に金(くがね)花咲く
  丈部人麻呂  大君の命かしこみ磯に触り海原わたる父母をおきて
  源頼政      みやま木のその梢とも見えざりし桜は花にあらはれにけり
  源実朝      山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
  楠木正行     かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる
  本居宣長     しきしまの大和ごころを人問はば朝日に匂ふ山ざくら花
  藤田東湖     かきくらすあめりか人に天つ日のかがやく邦のてぶり見せばや
  津田愛之助   大君の御楯となりて捨つる身と思へば軽きわが命かな

かわったところでは西郷隆盛と心中した僧月照や幕末の思想家・吉田松陰、尊皇攘夷の志士・高杉晋作もいる。
  僧月照      大君のためには何か惜しからむ薩摩の瀬戸に身は沈むとも
  吉田松陰     身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし日本(やまと)魂
  高杉晋作     後れても後れてもまた君たちに誓ひしことをわれ忘れめや

*1934=昭和9年  沢村栄治が全米選抜プロ野球チームを相手に力投した。

本塁打王ベーブ・ルース、強打のルー・ゲーリックらを擁する全米選抜チームが読売新聞社の招きで来日した。4日の神宮球場の第一戦を皮切りに全日本チームを相手に17試合を行ったが力の差は大きく、全日本は全敗したがこの日、静岡の草薙球場で行われた第9戦だけは0-1で「もしや」と思わせる惜敗だった。

沢村は6回まで0-0で被安打2と好投した。左足を頭の高さまであげてマウンドから投げおろす速球は150キロの速さは出ていたとされるから全米選抜をおどろかせた。7回にルースをピッチャーゴロに仕留めたあと4番のゲーリックにカウント0-2から右翼スタンドに本塁打された。

「ドロップの曲がりっぱなを打たれた」と試合後に悔しがった沢村の投球内容は被安打5、三振9、四球1で取られたのはこの1点だけだったから、あるいはと詰めかけた観客を興奮させたわけです。

*1948=昭和23年  北九州市の小倉競輪場で日本初の競輪が開催された。

この日の第一日は10レースが行われた。なかでも女子選手4人が登場し<実用車>で千メートルを走り抜ける特別競走には大声援が飛んだとか。延べ入場者数は4日間で5万5千人、総売上高1,973万円で主催の市の予想を大きく超えたから多くの自治体が後に続けと競輪場の建設や誘致に乗り出した。

それがいまや赤字で廃止になるところが続いているから<いい時代>ではありました。

*1890=明治23年  帝国ホテルの開業式が内外の賓客を招いて行われた。

鹿鳴館に隣接した木骨煉瓦造り3階建てで客室数は70室あった。井上馨が渋沢栄一と大倉喜八郎を説き伏せて有限責任会社を設立し設計はドイツに留学した渡辺譲で2年がかりで完成させた。開業式では株主代表として渋沢がスピーチした。「玄関正面にいと広やかな談話室あり、内部にはピアノやオルガンが備え付けられ、広さ百畳敷き位」と報じられた。他には玉突き場、舞踊室、喫煙室、食堂、新聞閲覧室まであると報じられた。

もりそば1銭の時代に一泊50銭から上等で9円、朝食50銭、昼食75銭、夕食1円だったが前日に申し込めば数百人の宴会も引き受けたという。当時は東京市内に数軒のホテルしかなく「東京一」を誇っていた東京ホテルも客室は25室しかなかったから本格的ホテルの建設が待たれていた。この初代帝国ホテルは残念ながら1919=大正8年に失火で全焼した。

関連記事