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“6月29日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1893=明治26年  「単騎シベリア横断」の福島安正中佐が午後0時30分、新橋駅に凱旋した。

ホームでは軍楽隊の演奏が迎え、駅舎内で「勲三等」の叙勲式が行われた。朝日新聞は「数万の群衆偉業たたへる」の見出しで大きく報じた。この中から叙勲式の際の中佐の服装などを紹介すると
「勲章を中佐が遠征のまゝに着し来れる軍服の胸部に掛けたり」
「中佐の服は例の如く単騎遠征期間中の軍服にして処々破れ砂にまみれ且痛く古びたり」
「携ふるところは少さき革包(かばん)と鞭とのみ其他長靴の不格好にして破れたる」
と遠征当時の軍服や長靴をそのまま着ていることを強調した。

中佐が停車場を出ると待ち構えた数万の群衆がいっせいに「福島中佐万歳」を叫ぶ。
「其声天地に震動したり而して群衆は何れも此名誉ある武官の容貌を一覧せんとて相排し相押して(=押し合いへし合いして)混雑する為に中佐は馬車に乗るを得ざる程なりしが漸くにして憲兵巡査の尽力に依りて道を開けり」
と群衆をかき分けてようやく出発できたと書いた。

歓迎式が行われた上野・不忍池畔に向かう沿道はさらに多くの小旗や幟を持った人波で埋まった。中佐の写真を売る写真館や上野、新橋周辺の飲食店には長い行列ができるなどの騒ぎで、多くの「写真師」が会場を飛び回って写真を撮った。この日は人力車も平日の倍の稼ぎがあったと伝える。

翌月には浅草六区の「大黒館」に中佐の幼少時から遠征、帰国までを全15段で紹介する「活人形」まで登場する。本物そっくりに作った人形で別名、生人形。背景は洋画で描き、人形の高さは1丈2尺余(=3.6m)というから馬上豊かな雄姿をそのまま再現したわけだ。

少しばかり皮肉るとこの遠征は全行程を日本政府や軍の全面支援で行ったものだ。“乗りつぶした”軍馬も20頭以上にのぼる。だから12日に目的地のウラジオストクに到着したときも「愛馬ウスリー号にまたがって姿を現した」と紹介したが、それは<20数頭目のウスリー号>だった。彼の地の日本貿易館の前に日の丸の旗を持って多くの日本人たちが待ち構えていたのはあくまでそのイメージ通りの中佐像であった。だから中佐も寡黙なら「馬は物言わず」で都合が良かったわけだ。

新橋駅頭の姿もその<大いなる演出>の延長線にあった。中佐は大群衆の前でそれを見事に演じきったとは言えまいか。

*1748=寛延元年  大坂・竹本座で人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演された。

赤穂浪士の吉良邸討ち入りを幕府に政治批判とみなされて処罰されないように「足利幕府成立のころの話」として書かれた。本来は冬だった討ち入りは五段目の山崎街道に6月29日の夜として出てくる。

娘の<思い人>が討ち入りに参加するための費用を用立ててやるため、娘を祇園の遊女屋へやる約束で50両を手にした父・与市兵衛。帰り道で家老の不良息子・定九郎に殺されて財布ごと奪われてしまう。その定九郎が足をぴしゃり、藪に囲まれた夜の街道筋は蚊が多い、そしてまたぴしゃり。同じ<血>ではあるが、大事のあとの小事、その台詞に観客が湧く。

夏の夜は人も蚊も血なまぐさい、じゃなくて『菅原伝授手習鑑(てならいかがみ)』、『義経千本桜』と並んで人形浄瑠璃・歌舞伎とも必ず大入りになるとされた人気狂言はなかなか芸が細かいということを思い出したまで。

*1897=明治30年  日清戦争で台湾が日本の領土になったことで「国内最高峰」が変わった。

富士山(3,776m)を221m上回ることになったのは台湾の玉山=モリソン山(3,997m)で明治天皇は「新高山(にいたかやま)」と命名し拓殖省の告示で公示した。

「ニイタカヤマ」といえば真珠湾攻撃の際の暗号に使われた「ニイタカヤマノボレ」で有名になった。しかしそれ自体が「戦闘行動を開始せよ」という暗号になるのではなく「ニイタカヤマノボレ一二〇八」として続く「一二〇八」が<12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ>という指令になる。そしてすべてが予定通りに行われたことでその後の日本の運命も大きく変わっていき電文も長く日本人の記憶の中に残ることとなった。もちろんすべては「暗号電報」として規則に従った数字に乱数を加えた処理をしたから<トンツー>を聞いたってそのままではわからないだろうが。

攻撃中止の場合の暗号は「ツクバヤマハレ=筑波山晴」だった、などというのはいまや歴史オタクのトリビア=ムダ知識だよと言われそう。

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