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“6月2日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1582=天正10年  明智光秀が謀反を起こした「本能寺の変」で織田信長が自刃した。

信長は中国地方の雄・毛利氏を討つため近江・安土城を出て前月29日に京都入りしていた。宿泊していた本能寺は当時、四条西洞院にあり150人程度の手兵だけだった。摘男で後継者の信忠はすこし北の妙覚寺を宿舎にした。本能寺には連日、公家衆や僧侶、有力商人らが挨拶に訪れた。間もなく朝廷から信長に「将軍の位」が授けられる運びで、4日には自らも長途出陣する手筈ではあったが「勅」が下りるまでは都を動けなかった。

代わりに先陣をつとめたのがもうひとりの有力家臣・豊臣秀吉で、備中・高松城(岡山)を水攻めしたが長期戦になったため光秀に応援の出陣命令が下りた。1日深夜、居城の亀山城(現・亀岡市)を出発した光秀軍1万2千は老の坂を越えて暗いうちに京都盆地に入る。そこから右=南へ辿れば山崎から中国路に至るが、光秀軍は左=北西の京都方向へ進軍、やがて桂川を越えると光秀ははじめて口を開き「敵は本能寺にあり」と宣言した。

夜明けなのに外がざわついている。馬のいななきや物音で目覚めた信長は小姓の森蘭丸に「こは謀反か、いかなる者の企みぞ」と様子を見るように命じた。戻った蘭丸は寺が何重にも敵兵に囲まれていることを報告した。「いくさ旗はすべて桔梗紋(=光秀の家紋)でござる」という報告に続く信長の「是非もない」は仕方ない、やむを得ないという意味だが、光秀の性格や軍勢の実力を知悉していたから「もう逃げられない」だったか。

信長は自身で弓を取り何人かを射抜いたが弦が切れ、代わりに槍で応戦したが傷を負った。逃げられないと知ると女衆に逃げるように指示して奥の間に籠もり、蘭丸に建物に火を放たせ自害して果てた。出陣には好んで舞わせたという「人間(じんかん)五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり」という幸若舞の『敦盛』の詞に合わせるように49歳の生涯だった。蘭丸・坊丸・力丸の森三兄弟や武将らが運命を共にした。

一方、本能寺が光秀軍に襲われたことを急報された妙覚寺の信忠は父の救援に向かおうとしたが何重もの兵たちに近寄ることもできず、戻って北側の二条御所に逃げ込もうとして光秀軍に囲まれ激戦のあげく自刃した。

ドキュメントはこういう流れだが、本能寺での信長の最期には別の記録もある。
明智の兵たちは御所の前で馬揃え(出陣前の軍事パレード)をすると門番たちは聞いていたので少数の兵たちは何も怪しまれず、たやすく境内に侵入できた。ちょうど信長が厠から出てきて手と顔を清めていたところだった。背後から弓で射るとその矢が背中に命中。信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら応戦していたが明智軍の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子を閉じて・・・

本能寺のすぐ近くの教会にいたイエズス会のポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが『日本史』に残した<見てきたような>記述だが、事件発生がまだ暗い時間だったからこれもどうだか。「背中の矢」も「左肩の弾痕」にしても、猛炎に消えた遺骸はだれがだれなのか見分けはつかなかったわけで、おびただしいがれきや炭のかけらまで探索したものの信長は行方不明のままだった。

<どうだかついで>に光秀の「敵は本能寺にあり」にしても時代の下がった江戸時代の元禄年間に書かれた『明智軍記』に「敵ハ四条本能寺、二条城ニアリ」とあるのが初出だからこれもどうだか。

こういう<どうだか連記>で紙数を稼ごうという気はさらさらないが、触れておかなければいけないのはやはり光秀が謀反、つまりクーデターを起こした動機だ。怨恨説、野心説、理想違い説、黒幕説に至っては光秀が以前仕えて信長に追放された足利義昭からはじまって、秀吉、家康、イエズス会、朝廷と挙げただけでも片手はある。あえていうならば「不慮の儀」というのを。つまり「魔が差した」ということ。

フロイスは光秀の人物像を「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」とか「己を偽装するのに抜け目がなし、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人」、「裏切りや密会を好む」などと特筆している。そんな人物だったからか、だったのに「魔が差した」わけで。光秀はどのあたりで<魔界都市>京都のパラレルワールドに迷い込んだのか。

最後に受験生用の<年代暗記法>を紹介しておく。

●1582=本能寺の変:「十五夜に満つ謀反の矢」

語呂合わせでまず年代、満つ→光秀、謀反の<ほん>→本能寺、矢→山崎の戦い、を合わせて連想させるという凝ったものと、もうひとつは止めとこうと思ったけど、ついでに。

●1582=本能寺の変:「イチゴパンツで本能寺」

南蛮渡来の派手な衣装を好んだ<洒落者>信長とはいえ当時の下着はせいぜい絹の「ふんどし」だったはず。

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