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“10月3日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1872=明治5年  東京・浅草の芝居小屋「守田座」が移転し「新富座」として開場した。

桟敷席で弁当の重箱を囲み、それを食べながら芝居見物というのが常識だった当時、初めて椅子席を設けた。場内の高土間を二段にして洋服を着た人向けに椅子席にしたが予想外に年配客らから足や腰が疲れないと人気を集めた。

江戸時代初期の1660=万治3年に木挽町に開場した「森田座」がはじまりで歌舞伎の芝居小屋<江戸三座>のひとつだった。天保の改革(1843年)で浅草・猿若町に移転させられ負債を抱えると<森田は森の下に田>これでは稲への日当たりが悪く豊作は期待できないという“験かつぎ”から小屋名を「守田座」に変え興行主の名前まで森田から守田にした。新富町への移転も<新しい富>を求めるという狙いがあったというから相当なものです。もっとも小屋主の<験かつぎ好き>はお客には関係ないから新機軸の椅子席導入は具体的なサービスの目玉だった。舞台の黒・柿・萌黄三色の定式幕=引幕や緞帳も新調し、小屋にはつきものの表の櫓(やぐら)もなくして開化新時代の劇場として賑々しく開業した。しかし4年後の日本橋数寄屋町から出火した火事で類焼してしまった。

せっかくだからその後を紹介しておくと火災の翌年6月、ガス灯などを設置した近代劇場に生まれ変わった。それにふさわしい洋風開場式で太政大臣・三条実美をはじめ外国公使らも招待された。軍楽隊の演奏のなか歌舞伎役者も全員が燕尾服で式に臨んだ。西洋の劇場のスタイルを取り入れ、初めての<夜芝居興行>を行い西洋劇の翻案芝居などで「演劇改良運動」の場になったが松竹傘下に入り関東大震災で被災したのが最後に。現在の京橋税務署と東京都中央都税事務所がその跡地として知られる。

*1885=明治18年  「横浜毎日新聞」が万年筆の名付け親は時計商・大野徳三郎と紹介した。

もちろん異説もある。万年筆がわが国に初めて入ってきたのはその前年で、横浜のバンダイン商会がイギリス製品を輸入し東京・日本橋の丸善で販売した。輸入元が考えたのは英文を直訳した「針先泉筆」で他に「軽便含墨筆」「吐墨筆」「自潤筆」を提案したが丸善は気に入らず「万年筆」として売り出した。大野はアメリカからも見本を取り寄せ、独自の改良を加えて完成させたものを同じように「万年筆」と呼んだという。

一方、国産万年筆の量産を手がけたのは大阪で「田中大元堂」を経営していた岡山出身の田中富三郎(1868-1967)だった。万年筆業界の先駆者で戦前「プッシュ万年筆」を製造・販売した。こちらも名付け親候補の一人である。従軍した日清・日露の両戦争とも信仰のお陰で数々の危難を免れたと大阪市西区立売堀に自費で「サムハラ神社」を建立したことでも知られる。「信仰は万益有って一害なし」と喝破し100歳まで生きた。

万年筆といえばインクが付きもの、明治末期に「スミレ・インキ」なるものが若い人たちの間で大流行した。人工香料でいい香りをつけた紫色のインクである。1オンス入り7銭。当時「星と菫(スミレ)」という言葉がはやった。天上の星を花にたとえ、地上の花の美をスミレの可憐な姿に求めた。つまり<彼と彼女=私>になぞらえたロマンチックな表現だ。「スミレ・インキ」は乙女たちがラブレターを書くための必携の小道具だった。そうなると万年筆より、やはり乾くたびにインクをつける「つけペン」のほうがイメージにはぴったりですか。いやはやとんだ脱線、お許しあれ。

*1935=昭和10年  イタリアのムッソリーニは雨季明けのこの日、エチオピア攻撃を開始した。

国際連盟の調停は完全に無視されたわけで侵略阻止策として国際連盟が各国に要請した経済制裁も英仏はイタリアとの戦争を回避するため石油、石炭、鋼鉄など重要な戦略物資を輸出禁止品目から除外したため実効が上がらなかった。イタリアは毒ガスまで使用して翌年5月5日には首都アジス・アベバを占領、9日にはヴェネツィア宮のバルコニーからムッソリーニがエチオピア併合を宣言した。

本当に経済制裁の実効は上らなかったのか。イタリアはもともと農業国で「工業の北部、農業の南部」といわれた北部にしても家内工業に毛の生えた程度で、重工業力や精密工業は遅れていたため軍事装備や物資面ではイギリスなどとは大きな差がついていた。陸軍は37個師団あったが装備品の小銃は1891年製で<骨董品>と酷評されていた。弾薬はわずか1カ月分、砲弾の質も悪く不発弾が混じり、装備の象徴として引き合いに出される軍靴に至っては数キロ歩いただけで穴があくという代物だった。

一方で空軍は爆撃機を中心に700機、海軍も世界第4位の戦艦数でまずまずだったが石油を英米に依存していたからやがて燃料枯渇に陥っていく。エチオピアの併合で誕生したイタリア領東アフリカも第二次世界大戦開始直後の1941年には早くもイギリスに占領されている。資源小国で工業力も乏しかったがゆえに<ファシスト王国>となったイタリアに経済制裁はボディーブローのようにじわじわとしかも確実に効いていったのである。

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