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“7月10日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1878=明治11年  内務省が東京・神田神保町に官立の脚気病院を設立した。

脚気は結核と並び当時の人々を苦しめた二大疾病で毎年、多数の死者が発生していたから政府の一大関心事だった。委嘱したのは漢方医の遠田澄庵と洋方医の佐々木東洋で、それぞれの医師に病棟を用意した。遠田は将軍家定(十三代)に次いで家茂(十四代)の御典医をつとめた老練医師で20歳若い佐々木は長崎でポンペから一年間にわたりオランダ医学を学んで江戸で開業、東京帝大病院で内科医長、東京府病院(後の慈恵医大)副院長などを歴任した少壮実力派だった。

開院の目的は表向きにはそれぞれの長所を生かすことで脚気撲滅をめざすとされた。しかし病棟も別々で、治療成果を毎年集計して公表することにしたので実際には西洋医学と漢方医学を競わせる結果になり「漢洋脚気相撲」という錦絵まで売り出された。なぜ相撲かはお分かりですよね。脚気=かっけにひっかけて<ハッケヨイ、ノコッタ、ノコッタ>で“差し違え”はないはずと。錦絵の尻馬に乗るわけではないが勝敗は漢方医の圧勝に終わった。漢方医が指導したのはまず食事療法で、麦飯と「赤小豆鯉魚湯」が大きな効果を生んだ。赤小豆と鯉のスープで<せきしょうずりぎょとう>と読むがいかにも効果がありそうな献立ではある。

では漢方医学の完勝だったかというと異論もあろう。漢方のほうはそれまでの経験や知識に助けられただけで原因を突き止めたわけではなかったから。漢方では脚気の症状にイノコヅチ(猪子槌)の根やイチヤクソウ(鹿蹄草)などの効果が知られていたほか「五積散(ごしゃくさん)」などの薬があった。スープに混ぜたかどうかは別にしてあくまで薬草知識をうまく使った対症療法に過ぎなかったのではないかという辛口の分析だ。

西洋医学のほうが佐々木を推薦した裏には帝国大学対在野勢力=漢方医学という構図が透けて見え、芳しい結果が出なかったことで病棟は4年後に東京帝国大学医学部内の「脚気病室」に移された。所詮は<異種格闘技>みたいなものだが負けは負け。同じころ洋方医が軍医を束ねていた海軍でも長期航海訓練に出かけた軍艦「竜驤(じょう)」で多くの脚気患者が死亡する事態が起きた。1879=明治12年12月から1883=同16年9月まで、オーストラリア、南アメリカ、ハワイ方面へ長期遠征に出かけたが169人の脚気患者が発生し、25人が死亡した。海軍の全軍艦乗組員を対象にした調査では5千人の兵員のうち3分の1が脚気にかかったという結果が出た。

当時、脚気の原因はわかっておらず、何らかの病原体か毒素によるという説が有力だったが海軍軍医大監の高木兼寛は変わったところに着目した。将校には脚気が少ないのに下士官以下には多かった。なぜか。新生海軍では食事は階級に応じた現金支給方式に代えられた。仕送りなどが頭にある下士官以下はなるべく主食の白米飯で腹をふくらませ、副食は食べずに節約することによる<タンパク質不足・炭水化物過剰>が原因だとした。

続く「筑波」による航海訓練ではほぼ同じ期間とコースだったのに白米、麦粉、肉類、魚介類をバランスよく用意したところ患者発生は16人だけで死者は出なかった。しかも患者はすべて<倹約組>であることが判明した。これを受けて1886=明治19年に艦内食は将校も含めた全員がすべて現物給付=賄い付きに変更された。これ以降の脚気患者の発生はほぼゼロとなった。一方、陸軍は日清・日露の両戦争とも前線兵士を中心に数万人以上の脚気患者を出し、1万人以上が死亡した。一説には4人に1人が犠牲になったといわれ「脚気は敵弾より恐るべし!」とささやかれた。もちろん敵対心を持っていた海軍の研究成果などいっさい聞こうとも調べようともしなかったから対策も遅れてしまう。

いまでは常識になっている「脚気はビタミン欠乏症のひとつ」で、ビタミンB1(サイアミン)が不足することで起きることがつきとめられたのは20世紀になってから。多く含まれるのは玄米、麦類、ピーナッツ、豆類、椎茸、魚類、肉類だから高木軍医大監の考案した海軍の艦隊食は<怪我の功名>とはいえ大きな効果があがったわけだ。

団塊世代の私、これを書きながら小学校の健康診断で校医が一人ずつゴムの槌のついた器具で膝をたたいていたのを思い出した。「膝蓋腱反射」という。ピクッと反応したら「よろしい」とか言われて。余談ついでに将軍家定の死因は脚気の悪化だった。漢方医の遠田が呼ばれた時にはすでに手の施しようがなかったという。

*1888=明治21年  「東京朝日新聞」が創刊された。

かねてから東京進出を狙っていた大阪の朝日新聞社の村山隆平社長は自由党の星亨が発行していた「めざまし新聞」を買い取った。これは「東京朝日新聞」を創刊するための布石だった。題字は現在と同じ縦書きで「朝日新聞」だったがその上に「京東」と右書きの二字を入れた。「逓信省認可明治廿一年七月十日」に続いて「紀元」「西暦」「昨九日(晴れ)正午寒暖計八十九度」とあるから当時は気温を華氏で表示していた。「品川湾の満潮時刻」もつけられていた。

新聞代価は1枚1銭、1ヶ月25銭、3ヶ月70銭だった。「第千七十六號」とあるのは大阪発刊からの通算で発行部数は公称6,000部とされた。

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