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“6月3日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1853=嘉永6年  東京湾の浦賀沖にこの日午後、4隻の黒船が突然現れた。

アメリカ合衆国東洋艦隊司令長官ペリーの一行で、旗艦サスケハナ(2,450トン)、ミシシッピ―(1,692トン)と武装帆船2隻が<戦闘態勢>をとって近づいてきた。

最初に恐る恐る漕ぎ寄せた物見高い数隻に対して攻撃がいっさいなかったことがわかると海岸や岬の陰で様子をみていた大小無数の和船がいっせいに艦隊に群がり好奇心旺盛に行ったり来たり。陸地では逆に見たこともない船に大騒ぎ、女性や子供を山中に逃がす一幕もあったがやがて夕方5時過ぎ鴨居村沖に投錨した。

乗員のホークスは『ペリー日本遠征記』に「投錨直前に天気はからりと晴れ渡り、富士山の高い頂がはっきり見え、とても綺麗だった」。漕ぎ寄せた舟人たちのチョンマゲを「頭にのせたピストル」、お盆のような竹笠をかぶった男を「古代勇士がかぶるマンブリーに似ておもしろい」と書き残している。マンブリーとはあのドン・キホーテが金盥(かなだらい)をかぶったサンチョ・パンサを<兜をかぶった騎士>と勘違いするシーンに登場するかぶり物だから、光線の加減で実際にそう見えたのかあるいは彼流のユーモア表現だったか。

異国船と聞いて浦賀奉行戸田伊豆守氏栄(うじひで)が「退去命令」を伝えるため配下の与力と通詞を連れて旗艦サスケハナにやってきた。しかしようやく乗艦させてもらったものの「浦賀奉行では身分が低い」とペリーには会えず、応対した副官のコンティ大佐に「退去」をにべもなく拒絶されてしまう。おまけに見物の船を遠ざけるように強く要求され、泡を食った奉行らがおたおたしていると大佐は銃で武装した水兵を乗せた短艇を数艇下ろし始める。奉行らは「早く退散しろ」と周囲の船に叫びながらほうほうの体で逃げ帰った。

鎖国というかたちで島国に閉じこもっていたわけだから無理もない。幕府の最前線とはいえこのありさまだったからそれにひきかえ相手の<交渉術>は一枚も二枚も上。第一ラウンドはアメリカ側に終始一方的に押しまくられた幕府側の<完敗>だった。

*1883=明治16年  カッターによる「海軍競漕大会」が東京・隅田川で行われた。

わが国初の<ボートレース>で明治天皇の行幸のもと開催された。「海国日本」を大いに宣伝するためで会場になった向島の言問橋付近では各隊の選抜チームが日頃の訓練の成果を競った。午前10時半から始まり1試合ごとに花火や水中花火の「水雷火」が打ち上げられたいへんな騒ぎになった。御前試合だけに一等賞金は50円で当時の小学校教員の初任給のほぼ1年分で隊の名誉以上に参加チームは燃えた。

午後5時半の終了まで水雷火が間断なく続いたから相当量の魚が空中に巻き上げられ、そうならないまでもショック死したわけで魚たちにとってはとんだ<受難の一日>になった。

*1937年  「王冠をかけた恋」で知られるウィンザー公とシンプソン夫人の結婚式が行われた。

フランス・トゥール近郊のサロンに親しい友人達16人だけを招いての質素なものだった。いったんはイギリス国王エドワード8世として王位に就いたものの結婚のため退位した。王位を捨てるというだけでも大ニュースなのに相手のアメリカ人のウォリス・シンプソン夫人に2度の離婚歴があったことで王室だけでなく国民からも激しいバッシングを受けた。

常に報道陣、なかでもパパラッチたちに狙われ、あることないことまで書き立てられた。それもあってイギリスを脱出、オーストリアに<避難>したあとさらにフランスに移った。「ウィンザー公」の称号が与えられた3か月後にようやく結婚のはこびとなったわけだ。

第二次世界大戦前にはドイツのヒットラーとの蜜月関係が噂されたことや、ウィンザー公のとかくの言動を嫌ったイギリスが植民地だったバハマの総督に任命することで<隔離>されるという一幕もあった。戦後はフランスに戻り<半引退>といいながらもアイゼンハワー米大統領をホワイトハウスに訪問するとテレビに出演するなどの社交生活で話題をまいたが夫人が「ウィンザー公爵夫人」として英王室から認められたのは1965年になってからだった。

ウィンザー公は71年10月にはヨーロッパ訪問中の昭和天皇と半世紀ぶりに会見したが翌72年5月28日に77歳で死去した。「祖国を出て36年 ウィンザー公ひっそり逝く」「世紀の恋の終焉 枕辺には最愛のシンプソン夫人」などと世界中のメディアに報じられた。夫人は86年4月24日に死去したが王族として扱われ、共に英国ウィンザー城近郊の王立墓地に眠る。遺産のすべてはパリのパスツール研究所に寄付されたことでも話題になった。

マスコミなどからの退位や結婚について聞かれるとウィンザー公は一度も後悔しなかったことを「もし時計の針を元に戻せても、私は同じ道を選んだでしょう」と答えた。

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