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“4月7日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1932=昭和7年  報知新聞が「自身で死亡広告を書き大往生を遂げる」という珍事を紹介した。

「越谷支局電話=死んだ人が自身の死亡広告を自身で出している――注意深い読者は直ちに気付くであろう、その珍死亡広告は6日の本紙朝刊、即ち本面の左下隅に出ている。およそ世間的形式を無視した文句を並べ、死者がその妻と連名で交友諸氏に呼びかけている」という書き出し。

黒枠付きの死亡広告は
「謹告 今回天寿ヲ以テ昨日交友諸氏ト永別スル事ニ相成、私モ彼ノ震災後ハ老夫婦故越谷ニ転住御陰様ニテ物資ノ苦モ感ゼズ閑静ノ地ニ於テ安眠セシハ是偏ニ各位諸君ノ賜モノト御礼申暢ベ御暇申上候(中略)此書ハ臨終間際ニ認候間不明ノ所ハ御判読ヲ願升 亡 米田三蔵 行年七十二歳」

臨終間際に書いたので不明の所はご判読を願います、とあるからには米田氏本人が書いたのに違いないと記者が取材に訪問して奥さんに話を聞くと、涙ながらに生前の翁=米田氏のことを話した。
「おじいさんは震災前までは神田で米問屋をしておりましたが、不幸にも震災前後に子供を失い、家を焼かれて命からがら越谷に移ったものです。近年不幸にも顔面静脈瘤にかかり、この三日に息を引き取りました。世の中を明るく面白く見ようとする気質で、いわば楽天家でした。趣味の端唄は至極堂に入ったものだといわれ、また相場の名人で、はるばる兜町辺りまで出かけていました。知人から相場の秘訣を聞かれると<相場に行くには寄付を寄附する気持ちで行かねばいけぬ>というのが口ぐせでした。この死亡広告は臨終の床で、ふるえる手に筆を持って書いたものです」

*1945=昭和20年  戦艦大和が米空軍の猛攻撃を受けて男女群島の南方海域で沈没した。

沖縄特攻に向かう途中の轟沈だった。午後2時20分、「傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。総員上甲板」を発令して間もなく大爆発を起こし、艦体は2つに分断されて海底に沈んでいった。伊藤整一第二艦隊司令長官、有賀幸作艦長以下3,063名が艦と運命を共にした。生存者はわずかに269名。船団を組んでいた軽巡洋艦・矢矧、駆逐艦・磯風、浜風、雪風、霞、朝霜など8艦を含めると3,721名が戦死した。

沈没地点は北緯30度43分、東経128度04分、長崎県男女群島女島の南方176キロ、深度345メートルである。

もう何十年になるだろう。仕事で徳之島に出かけたときに西海岸の夕日の名所・犬田布岬にある戦艦大和慰霊碑を訪れた。案内してくれた方から「このはるか西の方角に大和は沈んどります。ちょうど夕日が沈むあのあたりです」と聞かされた。
慰霊碑を訪れたことで戦艦大和の存在を身近に感じてか間もなく出版された鬼内仙次のノンフィクション『島の墓標 私の「戦艦大和」』(創元社、1997)を読んだ。

生存者を訪ねての丹念な取材で構成された労作のなかにこんな証言がある。
大和が山口県徳山港沖の描地を出港したのは4月6日15時20分。数時間後、高速で九州と四国を隔てる豊後水道を抜けていくときに日振島の岸に咲く桜が見えた。
薄暮の島に桜が咲いていた。兵たちは離れ行く島を瞬きもせず見ていた。陽が山の端に落ちると、ピンク色に縁取られたその島影を、冥土からこの世の名残を見るようにして眺めた。島と桜はゆっくりと道でも譲るように退きはじめ、少しずつ横を向いて歩み去る。やがて空は島と見分けがつかなくなり、金色にまぶされた雲だけがしぶとく映えて、一瞬島が強く浮き彫りされたかと思うと、墨色の大気の中に溶けていった。
花は暮の光を濾過して山腹にふわりと載っているようであった。茶碗型の島の入り江近くに二、三軒かたまった家が見えた。その平凡な佇まいから炊煙がたなびき、子供や鶏の声が聞こえてくるように思われた。家の側にも桜があった。花は目を奪うほどに盛り上がって、島はただそれだけのためにあるようであった。

機会があれば、いや、機会を作ってこの桜を、桜のためにだけあるような島を訪ねたいと思ったので日振島のある宇和島市観光課に手紙で問い合わせた。ところが意外な返事が返ってきた。
「島の西側、豊後水道に面しては絶壁が続いており桜の植生は残念ながらありません」
だった。

著者は確かに桜についての証言を聞いたのは間違いない。ではなぜだろうと考えた。
「特攻」であるから満開の桜が咲き誇る日本へはもう生きては帰れない。兵たちの目には島を覆うように咲き誇る桜があのとき確かに見えたのだろう。

桜は一瞬、暮れなずむ島影全体を覆って輝き、死地に向かう兵たちを見送ったのではあるまいか。

阿鼻叫喚の地獄を見たのと同じ網膜に残る桜の残像、桜とはまことに不思議な花である。

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