1. HOME
  2. ブログ
  3. “7月2日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“7月2日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1863=文久3年  「生麦事件」を巡る薩摩藩とイギリス艦隊との薩英戦争が勃発した。

別名「アングロ=サツマ戦争」ともいう。事件は前年8月21日に生麦村(現・横浜市鶴見区)で起きた。薩摩藩主の父・島津久光の行列を騎馬で観光旅行をしていたイギリス人が乱したとして藩士が切りつけ1人が死亡、2人が重傷を負った。これにイギリスが猛抗議、幕府は陳謝して賠償金を支払ったが薩摩藩は無視し続けたため、代理公使のジョン・ニールは本国に東洋艦隊の派遣を取り付け、横浜でみずから乗り組んで鹿児島に向かった。なかなかの“剛腕”外交官と見受けますなあ。

27日に鹿児島湾内に入ると市街地近くの沖合に投錨して「24時間以内に犯人の処刑と賠償金支払い」を要求した。これを薩摩藩が拒否するとイギリス側は薩摩藩の3隻の汽船を捕獲したため薩摩藩側が砲撃した。台風襲来のなか薩摩藩は10カ所の砲台の備砲83門から艦隊に砲撃を浴びせた。いずれも射程距離は1,000メートルほどで実戦経験もなかったから大半は射程不足で海に落ちたが先制砲撃を受けたのと台風下で操船に手間取ったためイギリス側は艦長を含む60余名が死傷、1隻が大破、2隻が破損した。

当然、イギリスも応戦した。東洋艦隊は射程距離が4,000メートルもあるアームストロング砲20門以上を含む101門を積んでいたからその威力はすさまじく、砲台はすべて破壊され、鹿児島城の一部や洋式工場「集成館」や琉球貿易船、市街地の500戸を焼いた。捕獲された汽船3隻も焼き払われるなどで死者も出た。翌日、艦艇は退去したが、薩摩藩の軍事力を見くびっていたため<短期戦>の準備しかなく、人的被害が出たのと弾薬・食料等が底をついたからとされる。

鹿児島では城下町の前の浜で戦闘が行われたので「まえんはまいっさ=前の浜戦」と呼んで「えげれすを退散させた」と自慢したが実質は勝敗つかずの<痛み分け>。イギリスとの交渉で薩摩藩は渋々、政府から用立ててもらった賠償金を払うことと犯人の処罰を約束したが政府への返済はされず、犯人処罰も<逃走中につき>として黙殺した。こちらもなかなかしたたかであります。

*1950=昭和25年  京都・金閣寺の国宝舎利殿(金閣)が未明の放火により全焼した。

犯人は寺の子弟で修行僧だった21歳の大学生・林養賢で、夕方になって裏山の左大文字山の中腹でカルモチンによる自殺をはかりうずくまっているところを逮捕された。わが国を代表する国宝文化財が失われたというだけでなく三島由紀夫が小説『金閣寺』を、水上勉が小説『五番町夕霧楼』、ノンフィクション『金閣炎上』を発表して話題になった。事件当日、産経新聞の宗教記者だった福田定一(司馬遼太郎)も現場取材にかけつけた。

三島の『金閣寺』は1956=昭和31年の『新潮』1月号から10月号の連載の直後に単行本化された。主人公の「私」にとって<絶対の美>である金閣を焼失させることで自分も死のうとするが果たせない。その狂気に寄りそうことで「私」の告白を引き出していく虚構至上主義の三島の代表作は最後に「私」が「生きようと思った」で閉じられる。

水上の『金閣炎上』は1979=昭和54年の作品。郷里も近く幼少時代の林本人に会ったことがある作者が20年越しの取材を重ね、多くの証言や捜査の一級資料から<なぜ>の分析を進める。生い立ちから事件まで、さらに病死に至るまでの林の人生と宗教界の暗部をえぐり出す。わが子が放火犯と知り、果たせなかった面会からの帰途、山陰線の列車から投身自殺した母親の境涯にも迫る。林は何を<憎んだのか>に肉薄する水上ならではの意欲作。焼失の5年後に再建されたのを報じる新聞の写真を担当医師が林に「どうだ、見たいか」と問うと「どうでもよい、無意味なことだ」と答えたと。林は懲役7年の刑期を満了しないまま病死。親子の墓碑が母の嫁ぎ先の在所の共同墓地にひっそりと並んで建ち、お供えの花が絶えないというところで終わる。金閣寺という絶対美を<心中相手>に選んだ彼もまた<金閣寺という魔界>に吸い寄せられたのだろうか。

*1943=昭和18年  洋風芸名の追放のあおりで古河ロッパにも“その筋”からのお達しが届いた。

コメディアンや文筆家、俳優として幅広く活動していたロッパは戦時下でも『花咲く港』『歌と兵隊』『スラバヤの太鼓』『レイテ湾』などの舞台や『勝利の日まで』などの映画出演を精力的にこなしていた。「僕は、何処までも、娯楽のために挺身するため、すべての用意をすべきだ」と宣言し、芸能活動を通じて国民をあくまで元気づけようという立場をとり続けた。

ところがこの日、舞台の芸名を「ロッパ」から「緑波」に変えるように“その筋”から要請があった。文筆活動のほうは「緑波」だったので芸名も“バタ臭い”片仮名より同じ漢字にしてはという程度の話だったのだろうが、反骨精神旺盛なロッパは「もう少しで警視庁に乗り込んであばれてやらうかと思った」と日記に書いた。「ロッパというのは俺の名だ。それをカタカナで書いちゃあなぜ悪い?」と。
公演のポスターも漢字・片仮名を<逆>にした「フルカワ緑波コウエン(=公演)」を考えたがこちらは思いとどまった。

関連記事