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“10月22日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*794=延暦13年  桓武天皇が平城京から遷した長岡京をわずか10年で平安京へ再遷都した。

せっかく本格造営した都を捨てた理由は何だったのか、原因については諸説あるが必ずしも明らかではない。以後、京都の地は千百年の都となった。

病気の父・光仁天皇のあとを受けて桓武天皇は781=天応元年に平城京で即位した。ところが凶作や疫病が続き皇嗣を巡る謀反事件もあったから翌年、改元して京都の10キロ南西の長岡京に遷都した。天智・天武の勢力争いも根深く仏教勢力との軋轢も背景にあってだが労役に駆り出される民の苦労や新都に移る役人の都合などてんでわかっちゃいない。それを象徴するように造営の陣頭指揮にあたる造長岡京使・藤原種継暗殺事件が起こる。連座して捕まった天皇の異母弟の皇太子早良親王は淡路に流される途中、抗議の絶食で果てた。

事件以後、天皇はその怨霊に悩まされることになり「この地は嫌だ」となったというのが<怨霊説>。都の南半分が桂・宇治・木津三川の合流点に近いので毎年のように水害に悩まされたからというのが<水害説>。両方が重なったという「複合説」などがある。早い話、諸般の事情が嫌になったので「ならば遷都」となったのだ。

山背(やましろ)国葛野・愛宕両郡にまたがる京都の地は大陸からの渡来人の秦氏が開拓した。彼ら豪族を大事にしながら翌月11月8日の詔で山背を山城とし都を平安京と定めた。「泣くよ(794)平安(平安京)感無(桓武天皇)量」と<一石三鳥>で覚えるとか。

*1919=大正8年  東京―大阪間を往復する「第1回懸賞郵便飛行」が行われた。

帝国飛行協会の主催で伊藤飛行機研究所から1名、日本飛行機製作所から2名の3機が参加した。初日は東京から大阪市内向けの郵便物約30キロを積んで無着陸で飛行、翌日は東京市内へ戻るという往復の所要時間を競うスピードレースで操縦する顔ぶれと機体は以下の通り。エンジンはいずれもアメリカ製で山縣機の機体は飛行家のパターソンが売却して帰国した複葉の中古機にスペアの新品エンジンを搭載、他の2機は機体・エンジンとも新品だった。
  伊藤飛行機研究所
    山縣豊太郎(21)=伊藤式恵美第5型ゴルハム125馬力郵便機
  日本飛行機製作所
    水田嘉藤太(29)=中島式6型ホールスコット200馬力複葉機
    佐藤要蔵(25)=中島式4型ホールスコット150馬力複葉機
ご覧になっただけなら水田機が本命で順当に1着になると思われるかもしれない。しかし、東京・洲崎飛行場を飛びたって順調に飛行を続けたものの鈴鹿山脈上空で雲に阻まれて紀伊半島を迂回、紀の川河原に不時着して失格になった。往路は佐藤機が3時間41分、山縣機が4時間40分。翌日の復路は佐藤機が3時間18分、山縣機が3時間47分で佐藤機が通算6時間59分で圧勝した。

水田機は翌日、大阪に到着し26日に航空技師を乗せて大阪を出発、2時間39分で飛んで新記録を出した。優勝した佐藤には賞金9,500円と年金600円(月額50円=1年)、山縣には4,500円、失格ではあったが水谷にも慰労金として1,000円が贈られた。
余談ながら山縣は広島市生まれ。民間人出身の飛行家としては初の「宙返り飛行」をしたことで知られる。この年5月9日に東京・上野公園で行われた「東京奠都50周年記念飛行」で風速20メートルのなか<2回転宙返り>をやってのけた。その日の夕刊で「曲技飛行の第一人者」と書かれて一躍有名になったが翌年8月、津田沼飛行場上空で練習中に主翼が折れてわずか22歳で墜落死した。

*1939=昭和14年  第1回女子競歩大会が甲州街道の25キロ区間で開催された。

女子マラソンの<はしり>ともいえる大会で明治神宮から府中の大国魂神社までの区間にモンペに運動靴、和服に白脚絆など思い思いのスタイルの385人が参加した。「競歩」とはいっても懸命に走ったわけで1着は13歳少女の2時間33分だった。
これを現在のハーフマラソンの記録と比較して、などとはちょっと違うだろう。同じ年の新聞に「節米、代用食の奨励」といういわゆる<節米食堂>の広告文が掲載されている。
【節米昼食】  1日:大豆入り昆布めし
         2日:かぼちゃめし
         3日:むぎめし
         4日:にしん入りうどんめし
         5日:落雁甘露めし
         6日:栄養めし
         7日:しのだ入り大根飯
「ご試食後ご入用の方には書きものをさしあげます」とあるが<書きもの>とはレシピ。「飯」ではなく「めし」とあるのはまだいいとして「落雁甘露めし」などは想像もできない。当時の甲州街道は現在と違って車もほとんど走っていなかったのだろうが400人近い<腹ペコ女子>たちはひたすら府中を目ざしたわけです。

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